牧師ブログ

どうして人は結婚するの?(1)

今日から30回シリーズ!?くらいで「恋愛」と「結婚」について、聖書を基にして学んでいきたいと思います。
結婚に関する本やセミナーから学んだこと、実際に結婚生活を送りながら感じたことを踏まえつつ記していきます。

まず、理想の夫婦像について聖書から1つの御言葉を選ぶとしたら、私は創世記2章25節を挙げたいです。

 「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」

人と妻というのは、アダムとエバのことを指していますので、夫婦2人は裸で向きあっていたけども、お互いに恥じらいを感じることはなかったということです。
なんだかエロティックな光景を想像するかもしれませんが、裸で造られた2人が恥ずかしくないというのは、ごく自然なことでしょう。

金沢にはスーパー銭湯がたくさんあって、近頃、足しげく通っております。
当然そこでは裸になるわけですが、恥ずかしさを感じたことはありません。
それは同性であるというのもありますし、みんな全く見知らぬ人だからということもあります。

ところが異性の前になるとどうでしょうか?
裸でいることに恥じらいを感じますし、さらに親しい間柄であればなおのことでしょう。

私たちが住む日本は服を着る文化があるので、公的な場で裸になっても許されるのは公衆浴場くらいです。
銭湯で裸になることに恥じらいを感じないのは、全く見知らぬ人に裸を見られたところで、外面的な自分の姿を見られているに過ぎないからです。

もし、外面だけではなく私の性格や心の思い、弱さや醜さなどの内面的なものまでも全て見られてしまうとしたら、とても恥ずかしく感じるはずです。
それが親しい人に対してであれば、なおさらです。

ここで裸が意味しているのは、外面的な自分というよりも「ありのままの自分」のことです。

私たちは普段、「ありのままの自分」という本音だけではなく、建前もうまく使い分けながら生きています。
それは相手に配慮するためでもありますが、本音だけでは関係崩壊を招きかねないからです。

だから、普段は服で裸を隠しながら過ごしているように、心も程よく隠しつつ生きています。
人間社会というのは心を裸にして生きるには、あまりにも厳しい世界だからです。

もし、私たちが本当の意味で裸になれるとしたら、どんなところでしょうか?
それは、自分のありのままの姿を見ても、それを受け入れてくれる人の前だけです。

アダムとエバが裸同士でも恥ずかしくなかったというのは、2人がそのように特別な関係にあったからです。

自分の素を知られても、離れることなく受け入れて一緒に歩んでくれる存在、それが神様が創造した人と妻(夫婦)の本来あるべき関係なのです。