牧師ブログ

「世界で最初の主日礼拝」

【ヨハネによる福音書20:19-23】

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

教会の原型

今日分かち合う箇所は「週の初めの日」に起こった出来事を記しています。
ここで「週の初めの日」というのは、日曜日のことで、その日はキリストが十字架で殺された後、初めの日曜日でした。
なので、弟子たちが集まっていた時、すでにキリストは復活していましたが、彼らはまだその事実を知らずにいたようです。
この集まりは、キリストの復活後、最初の日曜日の集まりだったという意味で、教会の原型だと言えるかもしれません。

確かに、そこに集まっていた弟子たちは、キリストに従ってきた者たちでしたが、この時点では、教会が教会であるための「あるもの」が欠けていました。

そもそも、彼らが集まっていたのはどういう理由からだったでしょうか?
それはユダヤ人に対する恐れでした。

師匠が逮捕されて殺されたことで、今度は自分たちが同じ目に遭うかもしれないと恐れていたのです。
それで弟子たちは、一つの家に集まり、鍵をかけてそこに隠れていたのです。

ある意味で、この時弟子たちは「一つ」になっていたと言えます。
戦争を考えるとよくわかりますが、組織や団体というのは、共通の敵がいる時、相手に対する敵対心やお互いの仲間意識によって、一つになることができます。

弟子たちはもともと、顔見知りの仲良しだったわけでありません。
いろんな職業の人がいて、彼らはキリストが十字架に向かっていた時、天の国では誰が一番偉いのかを争っているような人々でした。

ただ、この時の弟子たちは、ユダヤ人という共通の敵に対して、みんな同じ心で一つになっていました。
そういう意味で、弟子たちが集まっていた家は、彼らにとって、安心して身を置ける安全な場所だったでしょう。
共通の敵に対して、弟子たちはお互いの弱さを認め合い、励まし合うことができたからです。

もし、教会がただ自分たちにとって安心・安全な場所になることだけを考えるとどうなっていくでしょうか?
だんだんと閉鎖的な集まりになっていくでしょう。

自分たちの安全を脅かす人が来たら困るので、教会の扉にも鍵をかけ始めるでしょう。
その人が安全を妨げるような人だとわかれば、そこから追い出していくでしょう。
そうすることによって、教会は安全を保つことができ、一つになることができます。

しかし、それが神の願う教会のあるべき姿でしょうか?
ただ一つになっているということが、教会の条件なのでしょうか?

そうではないからこそ、キリストは弟子たちのもとを訪れました。
キリストの復活後、弟子たちの最初の日曜日の集まりに決定的に欠けていたもの、それはイエス・キリストそのものでした。

復活の主を喜ぶ教会

復活した後、弟子たちのもとに来たキリストは、繰り返し「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに語りかけました。
この言葉は、19節と21節に2度出てきますが、この言葉と共に、キリストは2つのことをされました。
ここでは「あなたがたに平和があるように」と言われたキリストが取った2つの行為に注目してみたいと思います。

弟子たちのもとに現れたキリストがなさった1つ目の行為とは「手とわき腹を見せた」ということです。
復活したキリストの手には十字架にかけられた時の太い釘の痕と、わき腹には死んだことを確認するために槍で刺された痕が残されていました。
その生々しい傷痕をキリストは弟子たちに見せたのです。

キリストはどのような意味でそうされたのでしょうか?
この時、弟子たちの目にはキリストの傷跡はどのように見えていたでしょうか?

おそらく、キリストが殺された後、弟子たちの心には、キリストを助けてあげられなかったという後悔があったように思います。
キリストが殺されてしまったのは、自分たちが裏切って逃げてしまったからだ、と。

そのため、弟子たちにとって、キリストの傷痕は自分たちの弱さの象徴でした。
この時点で、弟子たちにとって「復活したキリスト」というのは「自分たちが見捨ててしまったキリスト」でした。

しかし、不思議なことに、弟子たちは目の前にいるキリストを見て喜びました。
本来、死んだ人が生き返るということ自体、恐ろしいことですが、それが自分たちが裏切った相手だったとすれば、尚更です。
それにもかかわらず、弟子たちが喜んだのはどうしてだったでしょうか?

おそらく、弟子たちは、キリストの赦しの愛をそこで感じていたのだと思います。
弟子たちが出会ったキリストは、単に自分たちが見捨てたキリストではありませんでした。
それは、犯した失敗を責めることなく、見捨てられた相手を受け入れるキリストでした。
そこに、喜びがあったのです。

復活したキリストを中心にした最初の日曜日の集まりで起こったこと、それは「主を喜ぶ」ということでした。
弟子たちは、復活したキリストを一緒に喜んだのです。
私たちが日曜日に集まって礼拝するのは、復活の主を喜ぶためです。
自分たちの弱さを理解し、受け入れてくれる主が共にいることを喜ぶことが礼拝です。

主によって遣わされる教会

弟子たちのもとに現れたキリストがなさったもう一つの行為は「息を吹きかける」ということです。
この行為が意味することは何だったでしょうか?
キリストが弟子たちに息を吹きかけた後に「聖霊を受けなさい」と言われたことを考えると、息を吹きかけた行為は、やがて弟子たちに聖霊が注がれることを意味したものだったと言えます。

この聖霊を受けるということと深く関係することがあります。
キリストが「聖霊を受けなさい」と言われる前に、もう一つのことを言っておられます。

父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。(21節)

キリストは「わたしもあなたがたを遣わす」と言ってから「聖霊を受けなさい」と言われました。
つまり、聖霊を受けるということは、キリストによって遣わされるということを意味するのです。

今日はペンテコステと言って、この地に天から聖霊が注がれたことを記念して捧げる礼拝です。
キリストは復活した後、40日間、この地上に滞在してから、天に上げられました。
さらにそれから10日が経った時に、聖霊降臨という出来事が起こりました。

その時に聖霊を受けた人々は、キリストが言われたように、この世界に遣わされていきました。
その当時、イエスを救い主として告白する人々は、ユダヤの伝統を破壊する危険分子だと見られ、ひどい迫害に晒されていました。

それでも、聖霊を受けた人々は、教会の中で、危険を避けて安全第一で過ごしたわけではありませんでした。
多くのリスクを背負いながらも、この社会の中に出ていき、復活したキリストを宣べ伝えていったのです。

私たちには、信仰を持っている故に受ける苦しみがあります。
日本ではクリスチャンは少数ですので、社会の中で孤独を感じることがあります。
信仰を持っていたり、教会に行っていることを揶揄されることもあります。

そういう意味で、教会は駆け込み寺の側面もありますが、ただ、私たちがこのように日曜日に集まるのは、単にこの世の敵から逃れて、安全な場所を確保するためだけではありません。
日曜日に集まるのは、復活の主を喜ぶためであり、聖霊に満たされて、この社会に遣わされていくためなのです。

キリストが復活した後、最初の日曜日の集まりで起こったことが、2000年経った今も、時代や場所を超えて、全世界中で同じように起こっているのです。