3年前に北陸新幹線が開通してから、東京から金沢まで最速2時間半で来られるようになった。
10年ほど前に初めて金沢を訪れたが、その時はまだ直通の新幹線はなく、在来線の電車で10時間くらいかかった覚えがある。
社会というのはどんどん便利になっているが、それは、私たちがこの社会をコントロールしているからである。
わからなかったことがわかるようになり、できなかったことができるようになるにつれて、この社会は発展を遂げてきた。
私たちの人生も、これまで学んできた知識や経験、お金や権威などの力を使って、自分の人生を必死にコントロールしようとしている。
よい学校に進学し、よい会社に入り、よい結婚相手と巡り会って幸せになるために…。
でも、残念ながら何でもかんでも、自分の思い通りにコントロールできるわけではない。
私は結婚してから体重がグンと増えてしまったので、今頑張って、体重をコントロールしようとしている。
でも、なかなか思った通りにはいかない。
だんだんと年を取って来ると、自分の体でさえも、コントロールが効かなくなってくる。
そのような中で、我々のとても身近にありながら、ほとんどコントロールされない特別な存在がある。
それは「孫」だ。
20年近く前に大泉逸郎さんが歌う「孫」という演歌が大ヒットした。
「なんでこんなにかわいいのかよ 孫という名の宝物」
子供から見て、自分と親、また自分とおじいちゃんおばあちゃんとの関係というのは、似ているようで違う。
私は小さい頃はほとんど毎日習い事をやっていたので、その頃は今よりも、ずっとずっと忙しかった。
親は子供にいろんなことを経験させることで、よりよい人生が送れるようにという子供に対する特別な期待がある。
私が小学生の時、テストで100点を取ったらご褒美で100円もらっていたが、ただ口で勉強しなさいというよりも、お金の力を借りた方が、もっとコントロールしやすかったのだろう。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんは、孫に対してそういう期待はかけない。
それは別に、関心がないからじゃなくて、子供に対する見方が違うからだ。
自分の孫が勉強できてもできなくても、スポーツができてもできなくても、それはあまり重要なことじゃない。
とにかく、おじいちゃんおばあちゃんにとって孫というのは、いてくれるだけでかわいいのであり、存在していることそれ自体が喜びだ。
だから、たいていは孫に特別な期待をかけることなく、ありのままを受け入れる。
何か特別な才能があったり、資格を持っていたりするからかわいいのではなく、ただいてくれるだけで、その存在だけで十分なのだ。
そのため、子供からしたらおじいちゃんおばあちゃんという存在は、自分が受け入れられているという安心感があるので、とても親しみを感じやすい。
この特別な関係は神さまと私たちとの関係によく似ている。
神さまは、私に何ができるのか、どのような成功を収めるのかによって、私の価値を判断する方ではない。
私がいてくれるだけで嬉しくて、存在それ自体を喜んでくれる。
私たはは自分の人生をうまくコントロールできないと、なんで自分の思い通りにならないんだと落ち込んだり、イライラしたりする。
でも、勘違いしてはならないのは、自分の思い通りに人生をコントロールできるから、幸せになれるわけじゃないということだ。
そもそも、完全に自分の思い通りに生きて行くことなんてできない。
最後はみんな死によって人生を閉じなければならないように、自分の人生を完全にコントロールできる人は誰ひとりとしていない。
私たちの人生は、どれだけうまくコントロールできるかによってその意味や価値が変わる訳ではない。
うまくいっている時もそうじゃない時も、ありのままの私を受け入れて、私を愛してくれる神さまと一緒に生きていくところに本当の幸せがあり、喜びがある。
“私”という存在そのものを受け入れて、喜んでくれるのが神様だからだ。