牧師ブログ

「愛という泥臭さ」

1主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」2そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。3わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」(ホセア書3:1-3)

預言者ホセアが求められた生き方

よく日本人の名前に「愛」という漢字が使われるように、「愛」という言葉は、とても清らかで、美しい言葉の一つです。
かく言う私の二人の娘の名前にも、「愛」という字が入っていますし、教会の名前も「愛(アガペ)」教会です。
ただ私たちのイメージとは裏腹に、この愛という言葉は、実は、私たち人間の暗い現実と深く結びついた言葉でもあるのです。

預言者ホセアは、神様から「愛」を表す生き方を求められた人です。
その生き方というのがとても衝撃的ですが、なんと神様はホセアに、不倫をする妻と結婚生活を送るようにと命じました。

なぜ神様はそのようなことをホセアに求めたのでしょうか?
それは、神様がイスラエルの民をどれだけ愛しているのかを明らかにするためでした。
ホセアが不倫をする妻を愛するように、神様は霊的な不倫(偶像崇拝)をするイスラエルを愛されたのです。

しかも、ホセアが愛すべき妻は、不倫してしまったことを反省して、またやり直そうとしているのではなく、現在進行形で不倫の真っ最中にある妻でした。

ホセアの葛藤

ホセアはこのことに、とてつもない葛藤を抱きました。
ホセアは妻が不倫をやめるように求めました。
もしやめないと彼女をさらしものにするとか、渇きで死なせるというくらい、ホセアの心には妻に対する怒りを憎しみが沸沸と湧き上がっていたのです。

しかし、そういう心をホセアが抱いたということに、とても重要な価値があります。
なぜなら、ホセアが妻を愛し、妻との関係に留まろうとしていたからこそ、ホセアは激しい怒りや憎しみを感じていたからです。
もし、ホセアが妻を見捨て、関係を絶ってしまえば、そんな葛藤はしなくて済んだはずです。

「殺したい」とか「死んでほしい」という思いの中に、実は、ホセアの妻に対する「愛」が隠されていたのです。

関係に留まり続ける

それでホセアは不倫真っ最中の妻のもとに行き、代価を支払い、妻を買い取りました。
そして、また二人で新たな結婚生活を送り始めたのです。
当然、夫婦関係を修復していく過程には、複雑な思いが生じていたはずですが、それでもホセアは愛し続けたのです。

ここに、神様の愛があります。
神様は私たちを罪という主人から解放するために、キリストという尊い犠牲を払ってくださいました。
神様の心には、ご自分のもとから離れ去り、偶像に仕える人々に対する複雑な思いがあったはずです。
怒り、妬み、もどかしさなど…
そういう葛藤の中で、キリストは十字架にかかられたのです。
それは、私たちとの関係に留まり続ける神様の決意であり、このキリストによって、私たちはどんなことがあっても、神様と結びついていることができるのです。