牧師ブログ

「イエスの最終目的地」

【ルカによる福音書24:44-53】

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48あなたがたはこれらのことの証人となる。
49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

キリストが目指したところ①エルサレム

皆さんは、人生の最終目的地というものを持っているでしょうか?
「今、どこを目指して生きているか」と問われた時、どう答えるでしょうか?

よく、子供たちにする質問で「将来の夢は何ですか?」という問いがあります。
今の小学生たちに聞くと、男の子のトップはユーチューバーで、女の子はパティシエになりたい子が多いそうです。

ちなみに、私は小学生の時に「サッカー選手」になることが夢でした。
ただ、中学、高校は両方とも帰宅部だったので、その夢はぜんぜん実現しませんでしたが…。

それでは、イエス様には、何か将来の夢みたいなものがあったのでしょうか?
イエス様は何を目指して生きていたのでしょうか?

聖書を見ると、キリストには、最終的に目指しているところがあったことがわかります。
この地上、また全生涯において、2つの最終目的地がありました。

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。(ルカによる福音書9:51)

ユダヤの地に生まれたキリストは、30歳の時に、メシアとしての公の働きをスタートさせました。
キリストがこの地上において、目指していた物理的な場所があります。
それが、エルサレムです。

ルカによる福音書の9章51節に「エルサレムに向かう決意を固められた」と書かれています。
そして、エルサレムで、地上での命を終えることになります。
このように、この地上で、キリストが最終的に目指したところは、エルサレムでした。

なぜキリストはエルサレムに向かったのでしょうか?
それは、十字架による救いを成し遂げるためでした。

エルサレムというのは、ユダヤ教の宗教指導者たちの本拠地です。
ある時から宗教指導者たちは、キリストのことをユダヤの伝統を破壊する危険人物だとみなし、その命を狙うようになりました。

そのため、キリストがエルサレムに向かうことは、とても危険なことでした。
キリストがエルサレムに行くと周りの弟子たちに告げた時、彼らの多くがそれを止めましたが、それでも、予定通り、エルサレムに向かっていきました。
そして、弟子たちが危惧していた通り、十字架にかけられて殺されることになります。

このように、十字架による救いを成し遂げるために、この地上において、キリストが最終的に目指したところはエルサレムでした。

キリストが目指したところ②天

ただ、地上で人間として生きた33年半だけではなく、キリストの全生涯を考えた時、エルサレムは通過点に過ぎませんでした。
キリストには、まだその先に、目指しているところがあったです。
それが、最終目的地である天です。

先ほどのルカによる福音書の9章51節を見ると、キリストがエルサレムに向かう決意を固めた時、天に上げられることを意識していました。
天に上げられる時期が近づいたことを知って、それでキリストはエルサレムに向かったということです。

キリストはエルサレムで十字架で殺されて、終わりではないことを知っていました。
十字架の死の先があることを知っていたのです。

天に上げられるという出来事は、あまり聖書の中では注目されることが少ないと思います。
それよりも、十字架の死や復活の話を聞くことの方が多いでしょう。

キリスト教のカレンダーでは、一番有名なのが12月25日のクリスマスです。
あとは、最近は日本でもイースターが認知されてきていますし、来週の日曜日はペンテコステと言って、天から聖霊が注がれたことを記念する日です。

そんな中でマイナーながらも、キリストが天に上げられたことを記念する昇天記念日というのもあって、今年は先週の木曜日がそうでした。

注目度は低いですが、キリストが天に上げられたことには、大きな意味があります。
福音書には、キリストが十字架で殺され、復活するということを弟子たちに告げたことが書かれていますが、それと同時に、父のもとに行くということ、つまり、天に帰るということも、キリストは繰り返し、弟子たちに告げていました。
キリストが父のもとに行く方法こそが、昇天でした。

昇天の瞬間

今日の本文の中に、イエス様が昇天した瞬間のことが書かれています。

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(50-51節)

キリストは手をあげて、弟子たちを祝福しながら、天に昇って行きました。
キリストが天に上げられるということは、これまで3年半の間、一緒に過ごした弟子たちのもとを離れていくということです。

キリストが天に帰るということは、弟子たちからしたら、キリストとの別れを意味しました。
普通、別れの場面には涙がつきものであり、別れの時は、悲しみの時でもあります。

ただ、弟子たちとキリストとの別れの場面を見てみると、少し不思議なことが書かれています。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(52-53節)

弟子たちは、天に上っていくキリストを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰っていきました。
弟子たちは、キリストと別れる時、涙は見せませんでした。
それどころか、弟子たちはみんな大喜びでした。

そして、キリストと別れた後、絶えず神殿に行き、神様をほめたたえていました。
つまり、神様を礼拝し続けたということです。

目にみえる世界の先にあるもの

この弟子たちの姿から、昇天の意味について考えてみることができます。
昇天というのは、キリストが遠く離れたところに行ってしまう悲しみの出来事ではありません。

この時、弟子たちは、今まで自分たちと一緒にいたキリストが天に帰ること、父のもとに戻ることは、天が自分たちに近づく出来事に感じていたのだと思います。
弟子たちは、昇天の出来事を通して、神様をもっと身近に感じることができたのでしょう。

天は決して自分たちから遠く離れたところにあるものではなく、近くにあるのだと。
だからこそ、弟子たちは、キリストが天に上げられた後、喜んでエルサレムに行き、礼拝をし続けたのだと思います。

このように、昇天というのは、喜びの出来事です。
人間からは遠く離れていた天と、そこにおられる父なる神様が、この地上に近づいた出来事が昇天なのです。

キリストがこの地上に人間として生まれてきたクリスマスの出来事、また、天に上げられた昇天の出来事、そして、またいつかこの地に来られる再臨の出来事、これら全ては天と地が近づいたことを示す出来事だと言えます。

キリストはこの地上において、エルサレムの先にある天を目指して生きていました。
私たちも目にみえる現実の中で、それぞれ目指すところに向かって生きていっていると思います。
その中で決して忘れてはならないことは、この地上がゴールではないということです。
その先にある天を待ち望み、生きていくのがクリスチャンなのです。