牧師ブログ

「祈りのこと」

1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書13:1-11)

何をどう祈ってもよい?

今日の本文には「主の祈り」と言われるキリストが教えている祈りについて書かれているところです。
この主の祈りを毎週の主日礼拝で祈っている教会も多いように、これは歴史を通して、キリスト教会が大切なものとして代々受け継いできた祈りです。

キリストがこの祈りを教えたきっかけは、ある一人の弟子が「祈りを教えてください」とキリストにお願いしたことでした。
それで、キリストは弟子の求めに応えて「祈るときは、こう祈りなさい」と言って、主の祈りを教えられました。

このキリストと弟子の一連のやり取りは、ある一つの大切なことを示しているように思います。
それは、私たちは皆、祈りついて正しく教えてもらう必要があるいうことです。

「祈ることくらい、こっちの自由にやらせてくれても…」と思うかもしれません。
もちろん、私たちは何をどう祈ろうとも個人の自由ですが、そうだとしても、祈る時にあらかじめ知っておくべき大切なポイントがあることもまた確かなことでしょう。

ポイント①誰に祈るのか?

そのポイントとは、大きく分けて3つあります。
一つ目は、誰に対して祈るのかという祈りが向けられる対象の話です。

本文の2節を見ると、主の祈りは「父よ」という言葉で始まっています。
父というのは、天の父なる神様のことですので、祈りとは、父なる神様に対して捧げるものであると言うことができます。

日本人として生まれ育った人の中で、これまでに祈ったことが一度もないという人は、おそらくほとんどいないでしょう。
私もお正月の初詣や何かを祈願するために神社やお寺に行って、そこでお賽銭を投げて、祈ったことを覚えています。

そのように神社やお寺に行かなくとも「テストで良い点数が取れますように」とか、「明日いい天気になりますように」とか、個人的な願いを祈ったことがあるという人もいると思います。
また、お葬式の時に、仏教式であれば、手を合わせて亡くなった人のために祈るということも、日本では当たり前のように行われています。

このように、特定の宗教を持っていなかったとしても、また、神様について全く考えたことがない人であったとしても、ほとんどすべて人には祈った経験があるのです。

このことは何を意味しているでしょうか?
それは、私たち人間が神様に造られた霊的な存在であるということです。

ここが一つ、動物と人間との大きな違いではないでしょうか。
私はこれまでに動物が祈りを捧げている姿ところを見たことも、家族や仲間が死んだ時に、涙を流しながらお葬式をする動物も見たこともありません。

でも、人間は違います。
何かに向かって祈ります。
「困った時の神頼み」という言葉がありますが、特にピンチに陥った時、私たちは神的な存在に助けを求めるようにして、祈ります。
誰かが亡くなった時、死者のために、手を合わせて祈ります。

それは、人間には神様の息が吹き込まれているからであり、人間が神様に似せて作られた霊的な存在だからです。
神様によって創造されたからこそ、人間は神様のことはっきりとは知らなくとも、神的な存在を求めるのです。
人間は霊的な存在なので、死んだらそれですべてが終わりではないと暗に知っているのです。

だからこそ、キリストは、人間の存在の根源である天の父なる神様の名前を呼びながら、「父よ」と祈られたのです。
祈りとは決して曖昧な存在ではなく、天の父というはっきりとした対象に向けてなされるものなのです。

ポイント②何を祈るのか?

二つ目のポイントは、何を祈るのかということです。
「父よ」という呼びかけの後に続くのは「御名が崇められますように」「御国が来ますように」という言葉です。
さらにその後「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」「わたしたちの罪を赦してください」、こういう言葉が続いていきます。

このように、キリストは何を祈るのかということについて、すなわち祈りの内容についても、具体的に教えられました。

内容について見てみると、大きく二つに分かれていることがわかります。
ひとつは「御名が崇められますように」「御国が来ますように」とあることから、「御名」と「御国」のための祈りです。

御名と御国のためというのは、言い換えれば、神様の側のことだと言えます。
こちら側がどうなりたいという前に、神様の御名がたたえられますように、神様の御名を称える神の国がこの地に来ますようにということです。

そして、その後に来るのが、私たち側のことです。
3節、4節をみると「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」「わたしたちの罪を赦してください」とあるように、私たちに必要なこと、私たちが求めることを祈っています。

このことから言えるのは、祈りというのは単に、こちら側の要求を突きつけることではないということです。
また同時に、単にこちら側の願いを押し殺して、自分を無にすることでもないということです。

キリストも十字架にかけられる直前にこう祈りました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

キリストは極限状態の中で、御心に適うことが行われるように祈りながらも、迫り来る十字架という苦しみを取りのけてくださいと祈りました。

このことから言えるのは、祈りというのは、まず自分自身に正直でいるということです。
私が最近、信仰について新たに感じていることは、信仰というのは、熱心さや聖さ、従順さというもの以上に、正直さが大切だということです。
キリストも父なる神様の前に、正直な心を打ち明けて祈られたように、私たちも神様の前で変に偽らず、飾らず、正直に祈ればよいのです。

ポイント③祈りを続けてみる

最後の三つ目のポイントは、祈りをやめない、祈り続けるということです。
本文の5節以降で、キリストは祈り続けることの大切さについて教えています。

そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(9-10節)

この言葉は、一度求めて終わりではなく、求め続けなさい、探し続けなさい、叩き続けなさいということを意味する言葉です。

そのように、求め続けなさい、祈り続けなさいというキリストの教えは、信仰の本質を明らかにしています。
キリストは「もっと頑張りなさい」「もっと努力しなさい」とは言いませんでした。

この社会では「あなたの頑張りが足りないから、ダメなんだ」とか「まだまだ努力が足りない」「周りはもっと頑張っている」と言われたり、そう思われたりすることがあります。
私たちが生きているのは、明らかに頑張りや努力が要求される社会です。
もちろん、そういうものがどうでもいいわけではないでしょう。
聖書も怠けて、自由奔放に生きるようには教えてはいません。

ただ、神様を信じて生きることは、頑張ることや努力することが中心ではありません。
「求め続けなさい」と言われたように、これ以上頑張れないことがあったとしても、神様に求め続けることが信仰です。

良い物だけをくださる方

そうは言っても、私たちの心には、こういう思いが出てくるかもしれません。
「結局、求めても与えられないんじゃないか」
「ただ求めているだけで、本当にいいんだろうか」

お願いすること、しかも、一度断られたにもかかわらず、それでもお願いし続けることは、とても厚かましいことで、恥ずかしいという思いを抱くかもしれません。

ただ、キリストはこういう私たちの心をよく理解した上で、それを踏まえて、あえて言っておられます。
「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」と。

なぜ、諦めずに求め続けることができるのでしょうか?
それは、天の父なる神様は、子供である私たちのために、良い物を与えてくださるお方だからです。

13節に「自分の子供には良い物を与える」と書かれているように、子供を愛している親であれば、その子供のために良い物を与えたいと思うのは当然のことです。
ただ、ここで言われていることは、子供のために「何でも与える」ということではありません。
本当に良い親ならば、子供が願ったことをすべて叶えてあげるのではなく、本当にこれが子供にとって良い物かをよく分別して、与えようとするでしょう。

天の父なる神様は、私たちのために何が本当に良い物であるのかをよく知っています。
天の父なる神様は、私たちが願う物をすべて与えることが、私のために良いことではないことを知っています。
そのため、時には私たちが願っていないことだったとしても、与えられることもあるのでしょう。

キリストは、良い物をゲットするためにもっと頑張りなさい、努力しなさい、とは教えておられません。
天の父なる神様は必ず良い物を与えてくださるお方だから、神様に求め続けなさい、祈り続けなさいと言われました。
これが、主の祈りを通してキリストが教えておられる祈りであり、信仰です。