絶望の時
これまでに、絶望の時を過ごしたことはあるでしょうか?
ちなみに私は中学生と高校生の時に、2度のどん底を経験しました。
引っ越して環境が変わったことで、それまで当たり前にできていたことができなくなり、自分自身に失望しました。
それでも、中学生の時は、高校に上がるタイミングで、また、高校生の時は、大学受験という大きな目標があったので、そこからまた立ち上がることができました。
そういう環境の変化があったり、大きな目標があったことが、大きな助けになりましたが、もしそういうものが何もなかったとしたら、どうなっていたかは正直わかりません。
聖書を見てみても、いろんな絶望の瞬間が書かれています。
例えば、キリストの弟子たちが最も絶望したのは、おそらく、キリストが十字架で殺された時だったでしょう。
でも、弟子たちは、復活したキリストに出会ったことで、絶望からまた立ち上がることができました。
それでは、旧約聖書の中で、イスラエルの民が最も絶望した時はいつだったでしょうか?
それは、イスラエルがバビロンに滅ぼされた時ではなかったかと思います。
BC7世紀に、イスラエル王国のうち、南側にある南ユダ王国と言われる地域がバビロンという国に占領されて、滅ぼされました。
イスラエルの民は、自分の国を失うという絶望的な経験をしたのです。
この時代に、神様の言葉を伝える預言者として働いた人々がいました。
そのうちの1人が、エゼキエルという預言者です。
エゼキエルは、南ユダ王国が滅亡する10年くらい前に、バビロンに捕囚として連れていかれました。
そして、エゼキエルがバビロンに来てから5年が経った時に、神様から預言者として召され、バビロンに連れて来られたイスラエルの民に対して、預言の活動を始めました。
今日分かち合うエゼキエル書の37章というのは、南ユダ王国が滅亡した後に、エゼキエルがバビロンにいるイスラエルの民に対して語った言葉です。
つまり、イスラエルの民がこの言葉を聞いた時、すでに自分の国を失った状態でした。
エゼキエルは絶望の中にあるイスラエルの民に、神様の言葉を伝えなければなりませんでした。
こういう時、預言者は何を語ることができるのでしょうか?
実際に、神様は絶望するイスラエルの民に対して、何を語ったのでしょうか?
人間を人間とするもの
神様はまず、エゼキエルをある谷に連れて行きました。
そこでエゼキエルが見たものは、多くの枯れ果てた骨でした。
この枯れ果てた骨が何を意味するのか、本文の11節を見ると、それらはイスラエルの全家であることがわかります。
イスラエルの全家というのは、イスラエルという国とその民のことです。
「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」というのは、バビロンに連れて行かれたイスラエルの民の嘆きの言葉です。
これはつまり「自分たちはもうイスラエルに帰ることができないんだ」というイスラエルの民の絶望の言葉です。
それで彼らは、枯れ果てた骨のようになっていたのです。
その時、神様はエゼキエルに対して、イスラエルの民に神様の言葉を伝えるように命じられました。
神様は何をイスラエルの民に伝えようとされたのでしょうか?
神様が語られたことは、まず「わたしはお前たちの中に霊を吹き込む」ということです。
これは「聖霊を与える」ということです。
そして、霊が吹き込まれると、彼らは生き返り、神様が主であることを知るようになる、と神様は言われました。
ここで神様は、枯れ果てた骨であっても生き返ることができるという回復の希望を語っています。
絶望する民を生き返らせるのは、神様であって、それは神様の霊によってなされるということです。
創世記に、人間の創造について書かれているが、そこには人間がどのようにして生きる者になったかが書かれています。
神様は、土から人を造りましたが、ただ、人の形をしているだけでは、まだ生きる者ではありませんでした。
神様は最後に、その鼻から霊を吹き入れました。
こうして人間は、神様の霊が吹き入れられることによって、生きる者となったのです。
これと同じように、エゼキエルの時代も、神様は霊を吹き入れることで、人を生きる者とすると言われました。
その後、エゼキエルは実際に、神様から命じられたように、枯れた骨に預言の言葉を語り始めます。
そうすると、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づき、して、骨の上には筋と肉がつき、それを皮膚が覆いました。
そして、エゼキエルが「霊がこれらに吹き付けるように」と言うと、その中に霊が入って生き返り、自分の足で立ち、大きな集団となったのです。
このように、人が本当の意味で生きる者となるのは、骨と筋と肉に神様の霊が吹き入れられることによってです。
人間を人間とするのは、神様の霊なのです。
状況や環境ではなく
人が絶望している時に、誰かの言葉というのは必ずしも人を立ち上がらせる力にはなりません。
聖書の中でも、ヨブという人が家族や財産など、いろんなものを失ったことがありました。
その時、ヨブの友人はなんとかヨブを立ち直らせようと、いろんな話をしました。
しかし、友人の言葉は反対に、ヨブのことを傷つけてしまったのです。
私たちが本当に絶望している時、誰かの教えやアドバイスの言葉は、全く機能しなくなることがあります。
たとえそれが、どんな良い教えだとしても、何の力も持たなかったり、反対にその人を傷つけてしまうこともあるのです。
だからこそ、神様は言われます。
「わたしがお前たちに霊を吹き込む」と。
「わたしがお前たちを生き返らせる」と。
だから、どんな言葉をかけられても、何の力も湧いてこないような時こそ、実は、本当に生き返るチャンスなのです。
なぜなら、その時、自分の中から湧き上がってくる力でもなく、誰かの励ましの言葉の力でもなく、神様の霊によって生き返ることができるからです。
私たちは、どうしても自分が置かれている状況に支配されてしまいやすいです。
普通、絶望した状態にある時、生き返るためには、状況や環境が変わらなければならないと考えると思います。
バビロンにいるイスラエルの民に当てはめて考えるならば、バビロンから解放されて、イスラエルに帰ることができれば、生き返ることができる、と。
しかし、神様はイスラエルの民を自国に帰還させることで、民を生き返らせようとしたわけではありませんでした。
神様がしたことは、霊を吹き込むということでした。
ここからわかることは、私たちは良い環境、良い状況によって生きる者ではないということです。
神様によって、神様の霊によって生き返ることができ、神様の霊によって生きるのが人間なのです。
私たちは神様の霊によって人間とされ、神様の霊によって生きる者となりました。
この聖霊が、今、私たちの中に吹き入れられています。