牧師ブログ

「異様なほどの喜びよう」

1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカによる福音書15:1-10)

一人の罪人を探し回る神さま

神様は執念深いお方です。
失ったものを見つけ出すまで、探し出すお方です。
そのことを明らかにするために、キリストはあるたとえを語りました。

一つ目は、失われた羊のたとえです。
百匹の羊を持っている人がいて、そのうちの一匹でもいなくなったとしたら、九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうかという話です。

二つ目は、失くした銀貨のたとえです。
ドラクメ銀貨(一ドラクメが一日分の賃金に相当)を10枚持っている女性がいて、そのうちの一枚でもなくなったら、その一枚を見つけ出すまで念入りに探さないだろうかという話です。

このたとえに出てくる一匹の羊や一枚の銀貨が指しているのは、一人の罪人です。
7節に「悔い改める一人の罪人」とあるように、神様は、一人の罪人か悔い改めることを願って、念入りに、執念深く探し回っておられます。

この場合、罪人が悔い改めるとは何を意味しているでしょうか?
たとえに出てくる飼い主の元からいなくなった羊や持ち主の手から失われた銀貨というのは、何かしらの理由で、元々の主人の元を離れてしまったことを表しています。
自分のところから離れてしまったので、もう一度、戻ってくるように、主人は見つけ出すまで探し回るのです。

つまり、罪人が悔い改めるというのは、元々の主人である神様のもとを離れてしまった人が、元の主人のところに帰ってくることを言っているのです。

存在していることを喜ぶ神さま

主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(ペトロの手紙二3:9)

この中にある「一人も滅びないで」という言葉がとても印象的です。
神様にとっては、1/100というのは、単に1%ではありません。
一匹くらい別にいっか、一枚くらいはしょうがないとはなりません。
手元にあとどれくらい残っているかに関係なく、その一人を見つけ出すまで探し回るのです。
これが、神様の一人に対する執念深さであり、忍耐強さです。

失くしたものが見つかるというのは、別に宝くじのように大きなリターンが得られるわけではなく、プラマイゼロの出来事です。
もともと自分のものだったものが、見つかっただけに過ぎません。
しかし、自分のものが再び自分のところに戻ってくるということが、天において大きな喜びだとキリストは言っています。

つまり、神様はたった一人がただ存在していることを喜ばれるお方です。
戻ってくる時にパワーアップしている必要はありません。
ただ元の状態のまま、神様のところに戻るだけで良いのです。
なぜなら、私が私として存在していることが、神様にとって最も大きな喜びだからです。

「一緒に喜んでください」

神様はその一人が存在していることが大きな喜びですが、その喜び方というのが尋常ではありません。
キリストが語ったたとえの中に、ちょっと理解しがたいことが書かれています。

そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。(5-6節)
そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。(9節)

いなくなっていた一匹の羊が見つかった時、失くした銀貨が見つかった時、友達や近所の人を集めて「一緒に喜んでください」と言って、喜びを分かち合うというのです。
神様にとっていなくなっていたものが見つかること、一人の罪人が悔い改めることは、一人でその喜びを噛み締めるような出来事ではなく、友達や近所の人とも喜びを分かち合うくらい大きな出来事だからです。

このたとえ話の本筋は、実はここにあります。
そもそも、このたとえが語られたきっかけは、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、徴税人や罪人と一緒に食事をしていたキリストを批判したことにあります。
ファリサイ派や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出しました。

律法を厳格に守っていた彼らは、律法に背き、神に逆らって生きている徴税人や罪人たちが気に入りませんでした。
律法を守ってこそ、神に受け入れられるわけで、自分勝手にやりたい放題生きている奴らと一緒に食事をすることなんて、あり得ないことでした。

しかし、彼らは気づかなければなりませんでした。
神様に受け入れられるということが、どういうことなのかを。

神様は私たちのことを、自分のために何かをしてくれるから大切にするのではありません。
言いつけに背かずに、真面目に従ってくれるから可愛がるのではありません。
その一人が存在することを喜んでおられる神様は、たとえどんな過去があったとしても、私たちが神様のところに戻って、一緒に生きたいと願うことを喜んでくださるのです。