牧師ブログ

「憎めとか捨てろとか、また無茶なことを•••」

25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14:25-33)

家族を憎めだと?

キリストは家族を憎まないと弟子ではありえないとか、全財産を捨てなければ弟子ではありえないとか、かなり過激なことを語っています。
聖書では「隣人を愛しなさい」と言っているし、その最たる存在である家族を果たして見捨ててもよいのでしょうか?
ちょっと危険なカルトの思想のようにも聞こえてしまいます。

この聖書箇所を理解するために、まず、この時の状況を整理しておきましょう。
この時、キリストは弟子たちを伴って、エルサレムを目指して進んでいました。
キリストは、エルサレムに行けば、そこで何か起こるのかを知っておられました。
そこでは十字架という苦難が待ち受けており、全ての人々に見捨てられて、この世の命を命を終えなければなりませんでしたが、そういうことをよくわかった上で、キリストはエルサレムに向かっていました。

ただ、この時キリストの後から着いてきていた大勢の群衆は、やがてエルサレムでそんなことが起こるなんて全く思ってもみないことでした。
人々はこの方が旧約聖書で預言されているあのメシアであり、神はこのお方を通して、ユダヤを救ってくれるという特別な期待をキリストにかけていました。
ローマの支配から解放され、再びダビデの時代のような繁栄と自由がこの国に訪れる、これが群衆がキリストの後に従っていた理由でした。

そういう状況の中で、キリストは後ろを振り向いて言われました。
わたしの弟子であるためには、家族を憎むこと、自分の十字架を背負うこと、全財産を捨てることだと。

キリストの言葉の真意

キリストが語った言葉の真意はどこにあるのでしょうか?
そのために、キリストは二つのたとえ話をしています。
一つは、塔の建設についてのたとえで、塔を建てる時、当然、最後まで造り上げるのに十分な費用を計算してから建設を始めるだろうという話です。
二つ目は、敵との戦いについてのたとえで、どんな王でも、相手の戦力によってこちらの出方を考えるべきだという話です。
どちらも、大切なことを始める時、早急に決断するのではなく、前もってよく考えた上でどうすべきか結論を出すべきだということを伝えています。

なぜキリストがそんなことを語ったのかいうと、この時、キリストの後から着いてきていた大勢の群衆が、熱狂状態にあったからです。
彼らは「この方がユダヤを救うメシアに違いない!」という熱狂と興奮に包まれていました。
そんな群衆を見ながら、キリストは「いいからまず座りなさい」と言われました。
そして、座ってよくよく考えてみなさい、と。

キリストの後に従うということが、どういうことであるのかを伝えるために語ったのが、家族を憎めとか全財産を捨てろという話です。
私たちにとって、これらの言葉は過激なカルト思想に聞こえますが、これを正しく解釈するためには、当時の表現方法を理解する必要があります。

ユダヤには、あることを強調するために、その対照となっているものを完全に否定する表現方法があります。
なので、私たちが「憎む」というのと、ユダヤ人が「憎む」というのでは、必ずしも同じ意味ではありません。

二つのうち一つを選ぶ時、一方を愛し、一方を憎むという言い方は、感情的に憎しみを抱くということではなく、選ばないという意味です。
つまり、どちらを第一にするのか、何を優先するのかをはっきりさせたい時に、そのような表現方法を使うのです。

何を最も大切にするのか?

なので、「家族を憎め」とか「全財産を捨てろ」というのは、文字通りにそうしろということではなく、それを最も大切なものとしない、それに執着しないという意味です。
ここでキリストが言わんとしていることは「何を第一にするのか?」ということです。
キリストとの関係なのか、それとも他のものとの関係なのか。

もし、家族との関係をこの世で最も大切なものとして位置付けるのであれば、それが失われた時、人生が終わったように感じるでしょう。
もし、自分の命がこの世で最も大切なものだと考えるならば、病気や怪我でそれが失われそうになった時、激しい虚無感に襲われるでしょう。
もし、自分の財産がこの世で最も大切なものだとするならば、それが失われた時、生きる希望を失うでしょう。
このように、私たちにとって自分が一番大切にしているものを失うことは、全てを失うことと同じなのです。

こういうことを踏まえた上で、聖書が家族との関係や財産について、他になんと言っているのかを考えてみなければなりません。
キリストとの関係を最も大切に考えるということは、それ以外との関係を粗末にするということではありません。
逆説的ですが、キリストとの関係が第一になるならば、他のすべてのものとの関係も同じように大切にされるのです。

キリストとの関係を第一にするならば、家族というのはどこまでも愛し、受け入れ、仕える対象になります。
キリストとの関係を第一にするならば、自分の命や財産というのは、単に守るものではなく、人々に仕えるために用いるものになります。
キリストとの関係を第一にするならば、私たちはイエスの弟子となり、私たちの命や人生は、周りの人と分かち合うもの、分け与えるものとなります。

これが、キリストの弟子として生きることなのです。