命のパンであるマナ
歴史上、イスラエルの民が何かを得ることについて、大いに学んだ出来事が、旧約のモーセの時代にありました。
それが、マナという食べ物を通してです。
モーセの時代、イスラエルの民はエジプトで奴隷として、強制労働を強いられ、苦しんでいました。
神様はそんな民を救うために、モーセをリーダーとして立てて、エジプトから脱出させてくださいました。
これが世界史でも学ぶ「出エジプト」という出来事です。
エジプトを脱出した後、イスラエルの民が目指したのは、カナンと呼ばれる今のイスラエルがある地域でした。
エジプトからカナンへの道のりのほとんどが、砂漠地帯であり、食の危機に直面しました。
その時、民はリーダーのモーセに対して不満をぶつけます。
「エジプトにいる時は、お肉やパンもお腹いっぱい食べられたのに、あなたは自分たちをこんなところに連れ出して、飢え死にさせる気か!」と。
そんな民の思いを神様は聞いていました。
それで神様はモーセに対して「私はあなたたちのために、天からパンを降らせる」と言い、みんなが満腹になるほどに、夕暮れには肉を、朝にはパンを与えると約束されました。
それ以降、40年にも及んだ砂漠生活での民の朝食は、神様が天から降らせたマナというパンになりました。
民は天から与えられたパンを食べて飢えをしのぎつつ、最終目的地であるカナンへと辿り着くことができました。
イスラエルの民にとって、マナというパンは生きる上で欠かせないものであり、まさに命を支えるパンでした。
マナにあるもう一つの真実
モーセの時代、イスラエルの民にとってマナというパンが命のパンでしたが、キリストは「私が命のパンだ」と言われました。
キリストの時代、すなわち2000年前のユダヤでは、パンが主食でした。
とは言っても、私たちが普段食べているものとはだいぶ異なり、当時の人々の生活は貧しく、庶民は大麦で作った安いパンを食べて、飢えをしのいでいました。
また食料だけではなく、ユダヤ地方は乾燥地帯であるため、水を確保するのも簡単なことではありませんでした。
そのため、当時ユダヤで暮らしていた人々にとって、飢えや渇きといった問題は、命に関わるとても身近な問題として捉えられていました。
貧しい生活を強いられる中で、庶民の関心はパン、つまり、食べることに向けられていました。
そのようにパンがとても大切に思われていたユダヤにおいて、キリストは「神のパンは天から降ってきて、世に命を与えるものである」と言い、自らのことを命のパンだと言いました。
「天から降ってくるパン」という話を聞いて、人々はモーセの時代のことを思い出したはずです。
荒れ野を旅していたイスラエルの民は、マナというパンを食べて、毎日、命をつなぎ止めていたと言うこともできますが、神様が天からマナを与えたのには、別の理由がありました。
このことについて、神様はモーセにこう言っています。
「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」(出エジプト記16:12)
神様がパンを与えてイスラエルの民を養ったのは、栄養を補給するためであると同時に、民が神様こそ私たちの神であることを知るためでもありました。
この出来事が意味していることは何でしょうか?
それは、人間というのは、ただご飯を食べて、必要な栄養を摂取して肉体的な健康を維持していることが、生きているということではないということです。
人が人として生きること
このことから、人が本当の意味で「生きる」とはどういうことかを考えてみましょう。
医学的に人が生きているというのは、心臓や脳が働いていて、体が活動している状態のことを言いますが、神様はイスラエルの民が生きる上で、ただ食べ物さえ与えていればそれで十分だとは考えていませんでした。
食べる物や住む家など、物質的に満たされていても、生きることに疲れてしまうことがある、という現実があります。
それなりに豊かだと言われる日本でも、孤独や精神的な問題で自ら命を落とす人々もいます。
このことから、人が本当の意味で生きるということは、単に食べて、飲んで、生命を維持している以上の意味があると言えます。
キリストはこう言っています。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
キリストのもとに来る者は、飢えることも渇くこともありません。
つまり、私たちの命を創造された神という存在を知り、その神と共に生きる時、人は本当の意味で飢えや渇きから解放されるのです。
神と共に生きる人生、これが本当の意味で、人が人として生きることなのです。