和解のプロセス
皆さんはこれまでに、教会の中で何か問題に巻き込まれたことがあるでしょうか?
15〜17節は、教会の中で誰かが自分に対して罪を犯した場合、どのように対処するべきか、キリストが教えているところです。
もしかしたら、この御言葉を参考にして、問題を解決しようとした経験があるという方もいるかもしれません。
ただ、この場面でキリストは、単に問題を解決するための具体的なプロセスを教えたかったわけではなかったと思います。
18章全体を見ると、ある一つのテーマが貫かれていることに気づきます。
18章の最初の話は、天の国では誰が一番偉いのかと、弟子たちがキリストに問いかけるところから始まっています。
これに対してキリストは「子供のようになりなさい」、「一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。
ここでは「子供」という言葉が繰り返されています。
そのあと10節を見ると「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」というキリストの言葉があり、14節には「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と続きます。
ここには「小さな者」という言葉が繰り返し出てきます。
そして、今日の場面の後、21〜22節を見ると、ペトロがキリストに「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と聞くと、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とキリストは答えました。
ここでは、兄弟に対する赦しの話がされています。
子供、小さな者、赦し、これが18章を理解するためのキーワードです。
15〜17節でキリストが問題解決のプロセスを話している理由はなんでしょうか?
それは子供のように社会では小さな者に見られている人を赦し、受け入れることで、共同体が守られるということを伝えるためではないでしょうか?
共同体に属する人を大切にすることは、共同体を大切にすることだからです。
キリストの関心は、尊い一人一人の存在と、また同時に、一人一人がキリストに結ばれることによってできるキリストの体、教会共同体にあります。
そう考えると、キリストが提示した兄弟と和解するためのプロセスは、必ずその通りに進めなければならないものではなく、あくまでもプロセスのうちの一つです。
重要なことは、共同体とそこに属する一人一人が守られることにあるのです。
ひたすら我慢することが信仰?
それではまず、15節の「もし、兄弟が自分に対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」というキリストの言葉から考えてみましょう。
一般的に、誰かが自分に対して罪を犯した時、どうするでしょうか?
この時、キリストはまず相手のところに行くように言っていますが、そもそも、その人のところに行くか行かないか、二つの選択肢があります。
行くという選択をした場合、やられた分やり返すこともできますし、やられた以上にやり返すこともできます。
私たちは自分だけが損するのは苦手なので、そうできるならそうしたいでしょう。
でも、実際には相手のところに行くことができない場合というのもよくあります。
もうその人の顔も見たくないとか、会うのが怖いとか、いろんな理由がありますが、もし相手のところに行かないという選択をした場合は、あとはこちら側の心の問題になります。
赦し、受け入れる心が与えられればいいのでしょうが、そうできない場合は、時間が過ぎるのを待ちながら、我慢するしかないのでしょう。
ただ、ここでキリストが言っていることは、何をされてもひたすら我慢しなさいということではありません。
キリストは誰から右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさいと言っていますが、これはやられたらその分やり返すという価値観に対して、警鐘を鳴らしているものです。
復讐を止めるように言っている言葉です。
なので、何をやられても何も言わずに、我慢し続けることが信仰ではありません。
キリストは兄弟のところに行って、できれば相手と話をするように勧めています。
それでもし、相手がこちらの話を受け入れたら、それでひとまず、問題は解決に向かっていくでしょう。
ただ、行って話をしても、相手が聞き入れない場合もあります。
その時は、一人か二人を一緒に連れて行って話をし、それでも難しい場合は、教会に申し出るようにキリストは言っています。
解決の順序として、まずは個人的に解決を目指し、それでも難しい場合は、共同体の中で解決を目指すようにということです。
それでも相手が話を聞き入れないのなら、その人を異邦人か徴税人と同じようにみなすしかありません。
これは、相手と完全に関係を断絶するということではなく、その人と距離を取りなさいということでしょう。
これが、キリストが教えられたプロセスですが、必ずこの順番で進めなければいけないというものではないはずです。
問題の程度にもよりますが、トラウマがある場合などは、そもそも相手と会って話をすることも難しいでしょう。
ここで大切なことは、以下の3つにまとめられると思います。
1つは、罪を犯した人をどのように見るのかということ、また、どのようにして共同体を守るのかということ、そして何よりも大切なことは、自分自身をどのように守るのかということです。
一緒に生きる道
1つ目の「罪を犯した人をどのように見るのか」ということについて考えてみると、キリストと私たちでは、その見方に大きな差があることは明らかです。
社会の中で、誰かが犯罪を犯したとか、道徳的に悪いことをしたということがニュースになると、人々はその人を悪者扱いします。
悪者なので悪口を言われるのです。
しかし、キリストの見方は違います。
キリストにとって罪を犯した人は、悪人というよりも、弱い人です。
悪いことをやろうと思って悪いことをしているのではなくて、罪を犯していることに本人が気づいていない場合も多いのです。
パウロもローマ書の中で似たようなことを言っていますし、これは自分自身に置き換えて考えてみても、そう思います。
私たちには「自分でも自分が何をしているのかわからない」という弱さがあるということです。
大きなニュースになるような事件を見てみると、罪を犯した人には複雑な背景や事情があることがよくあります。
家庭環境の問題や子供時代の傷やトラウマなど、その人が起こした出来事の裏に隠れたいろんな事情があるのです。
その人がやったことや表に出て目に見えるものだけでは、当然その人のこと全てはわかりません。
なので、できれば相手のところに行って、話をするのがよいのでしょう。
対話ができるというのは、信仰の有無にかかわらず、人間としてとても成熟した姿です。
誰かと対話をするためには、3つのことが必要です。
まずは自分の意見を持っていて、それを言葉にできることです。
また、相手の話に耳を傾けられること、そして、相手と対等な立場で話す姿勢です。
たとえ相手がどんなにひどい話をしても、理解できないようなことを言っていたとしても、その人の尊厳と価値を認めるところに、対話の可能性があります。
この姿は、まさにキリストの姿だと言えるでしょう。
これが人として成熟した姿ですが、なかなか簡単にできることではありません。
人によって、理想論に聞こえるかもしれません。
相手も弱い人間ですが、私も弱い人間です。
問題が起こるのは、お互いに弱い人間同士だからです。
だから、仲間が必要です。
私たちは一緒に生きていくように、神様によって造られています。
私たちには、一緒にいてくれて、一緒に祈ってくれる仲間が必要です。
その中にキリストも共におられると約束しておられます。
この集まりが、教会です。
教会によって自分が守られます。
それと同時に、相手が守られ、その結果として、共同体が守られることになるのです。