受胎告知
今日分かち合うのは、天使ガブリエルがマリアにイエスの誕生を告げる場面です。
先週は、ガブリエルが祭司ザカリアのもとを訪れて、妻のエリサベトが男の子を生むことを告げる場面を分かち合った。
その後、エリサベトが妊娠6ヶ月になった時、ガブリエルは今度はマリアのもとを訪れて、男の子が誕生することを告げました。
これは「受胎告知」と言われる場面で、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品にもなっている出来事です。
子供を身ごもることは、とてもおめでたい出来事です。
しかし、普通は「おめでとう」と祝福される場面において、おめでとうと言われた人にとっては、それをおめでたい出来事だと受け止められないことがあります。
まさに、この時のマリアがそうでした。
エリサベトとマリアとで、大きく違うことは、エリサベトの場合はもう歳をとっていて子供を産めない状況だったのに対して、マリアはそうではなかったことです。
エリサベトと夫ザカリアは子供を願っていたのに対して、マリアはまだ結婚する前でした。
27節をみると、マリアについて「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけ」とあるように、この時のマリアはヨセフの婚約者であり、大切な婚約期間を過ごしていました。
今だったら、結婚する前に子供を産むカップルもそれなりにいますが、当時のユダヤでは、それは絶対にあってはならないことでした。
ユダヤでは、1年間の婚約期間を経てから、結婚に至るという文化があり、もし、結婚前に妊娠したことがわかったら、姦淫の罪に当たります。
その場合、男女共に、石打ちの刑によって殺されなければなりませんでした。
そのため、婚約期間を過ごしていたマリアが子供を身ごもるということは、自分の命を危険に晒すことだったのです。
当時のユダヤは、未婚の母を受け入れてくれるような優しい社会ではありませんでした。
当然、マリアが身ごもったことがわかれば、婚約相手のヨセフとの関係もダメになるでしょう。
そういう意味で、マリアが身ごもるということは、エリサベトとはわけが違いました。
マリアにとっては、それはめでたいどころか、起こってはならないことだったのです。
マリアの受け止め
しかも、マリアが産むことになる男の子は、ただの男の子ではありませんでした。
32節と33節をみると、天使は生まれてくる子供について、いと高き方の子であり、神様からダビデの王座が与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがないと告げています。
「いと高き方の子」「ダビデの王座」「永遠にヤコブの家を治める」「その支配は終わることがない」という言葉は全て、旧約聖書にあるメシアに関する言葉です。
つまり、マリアの身に降りかかったことは、結婚前であるにもかかわらず、子供を身ごもること、さらには、その子がなんと旧約聖書で預言されていたメシアであるという、簡単には受け入れがたいことでした。
神様は、その時のマリアの状況を知らなかったのでしょうか?
当然、わかっていたはずです。
すべてわかった上で、神様はマリアを選んだのでしょう。
生まれてくる子供は聖霊によって身ごもるということは、そこに神様の御業が現されるということです。
神様の計画の中で、マリアは選ばれたのです。
初めにこのことを聞いた時、おそらくマリアの心にはこんな思いが浮かんだかもしれません。
「今は大切な時期だから、どうかそっとしておいてほしい」、「私の幸せを壊さないでほしい」と。
恵み
ただ、ここで注目すべきことは、マリアがメシアを身ごもることは「恵み」であると、天使が伝えていることです。
天使がマリアのもとに現れて、初めに言った言葉は「おめでとう、恵まれた方」です。
また、30節では「あなたは神から恵みをいただいた」と天使は言っています。
このように、天使は「これは恵みである」と繰り返し告げているのです。
「恵み」という言葉は、普段はあまり使うことの少ない言葉ですが「恵まれた環境」とか、「才能に恵まれている」というように使うことはあるでしょう。
この場合、恵みという言葉が意味するのは「良い」とか「豊富である」というようなことで、何か良いものが備わっている時に使います。
クリスチャンの間でも「恵み」という言葉が、何か良いことが起こった時に「これは神様の恵みだ」というように使われることがあります。
ただ、神様の恵みというのは、単に良いことが起こったとか、物事がうまくいくということ以上の意味があります。
天使がマリアに告げた言葉をもう一度聞いてみよう。
天使が初めに言った言葉は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」です。
なぜマリアが恵まれた方だと言えるのでしょうか?
マリアは、子供が産まれることを求めていたわけではありません。
メシアを身ごもる環境が整っていたわけでもありません。
それでも、マリアがメシアを身ごもることがなぜ恵みなのでしょうか?
それは、主がマリアと共におられるからです。
マリアがメシアを身ごもることは、主が共におられる中で起こることなので、マリアは恵まれた人なのです。
クリスマスの大きなメッセージは、この「主があなたと共におられる」ということです。
聖書の中で、イエスのことが「インマヌエル」と言われています。
このインマヌエルという言葉は「神様は私たちと共におられる」という意味です。
イエスがこの世界に生まれたことによって、明らかになったことがあります。
それは、神様が私たちの世界、そして、そこに生きる私たちと共にいてくださることです。
神様は私たちに日々、いろんな恵みを与えてくださっていますが、すでにすべての人に与えられている恵みがあります。
それが、神様が私たちと共にいてくださるということです。
恵みの世界を生きる
恵みという言葉の反対の意味を考えてみると、神様の恵みについてもっと深く知ることができると思います。
恵みの反対の言葉はなんでしょうか?
神様が共にいることが恵みだとすれば、神様が共にいないことが恵みの反対です。
神様が共にいない世界というのは、私なりに考えてみると、そのままではいけない世界です。
今の自分ではいけない世界が、神様がいない世界です。
そこは自分がすべての世界、自力の世界です。
自力の世界は、何もかもが自分次第です。
そこでは、そのままではダメであり、もっと良くならなければならず、もっと頑張らなければなりません。
その責任も結果も、全部自分1人で背負うのです。
そういう世界は、いつも不安やプレッシャーばかりがあって、安らぎがない世界です。
自力の世界のキーワードは「なんで?」だと言えます。
「なんでそうなの?」「なんでできないの?」と責める世界です。
これとは反対に、恵みの世界は、そのままでいい世界、今の自分でいることが許される世界です。
神様が共にいる世界のキーワードは「大丈夫」です。
私たちは日々「なんで?」という問いとともに、自分を責めることがあります。
しかし、神様は私たちをそのように責めるお方ではありません。
それはサタンがすることです。
もちろん、日々、いろんな葛藤があることは確かです。
マリアも「お言葉どおり、この身に成りますように」と天使に言いましたが、この時に100%の確信があったとは思いません。
子供を身ごもったことがわかった時、それをヨセフに知らせなければならなかった時、子供を出産し、育てる時、いろんな不安や葛藤の中で過ごしたことでしょう。
それでも、マリアの中には神様がなされることへの信頼があったことは確かでしょう。
なぜなら、神様が共にいる世界は「それでも大丈夫」だと思える場所だからです。