それがイエスだとわからなくとも…
キリストが死から復活した後、3度目に弟子たちの前に姿を現したのは、ティベリアス湖(=ガリラヤ湖)でした。
ガリラヤにやってきていた弟子たちは、その日、漁に出かけ、一晩中漁をしたものの、何の収穫も得ることができませんでした。
そこに、復活したキリストが現れたのです。
夜が明けた頃、岸にはキリストが立っていましたが、弟子たちには、それがキリストであることがわかりませんでした。
これと同じような話が、ヨハネによる福音書の20章にも出てきます。
マリアという女性がキリストが葬られた墓を訪れた時のことです。
マリアは墓が空になっているのを見て、遺体が誰かに盗まれてしまったと思い、泣いていました。
実は、その時、マリアのすぐ後ろに、キリストは立っていましたが、マリアはお墓の管理人さんだと勘違いしていて、それがキリストであることに気づきませんでした。
その時と同じように、弟子たちが一晩中漁をしても、何の収穫も得られずに意気消沈していた時、岸にはキリストが立っておられたのです。
信仰とは…
この二つの出来事が意味していることは何でしょうか?
それは、たとえ、私たちがキリストの姿を見られなかったとしても、その存在を感じることができなかったとしても、キリストは私たちのすぐそばにおられるということです。
マリアが泣き悲しんでいる時、キリストはすぐそばにおられました。
弟子たちが漁に失敗してへこんでいる時、キリストはすぐそばにおられました。
失敗や過ちを犯した時、物事がうまく行かないと感じる時、私たちは「自分は祝福されていない」とか「神に見放されている」と感じることがあるかもしれません。
しかし、聖書が伝えている神様は、繁栄や成功の中だけにいるのではありません。
神様は失敗や過ちを責め立てるようなお方ではなく、何があってもそこに共にいてくださるお方です。
このことから、信仰について言える一つのことは、、、
「信仰とは、今、自分が置かれている環境に、共にいてくださる神様を信じること」
ということです。
炭火焼魚定食を囲みながら…
キリストは一晩中漁をして、疲労困憊の弟子たちのために炭火焼魚定食を準備してくださいました。
この時、キリスト自ら、弟子たちにパンと魚を分け与えられました。
キリストにとって、誰かと一緒に食事をすることには、特別な意味があります。
福音書を見ると、キリストが弟子たちと一緒に、または、罪人たちと一緒に食事をする場面がよく出てきます。
当時のユダヤにおいて、罪人というのは社会不適合者というレッテルと貼られて、人々の間から除け者にされていた人々です。
そのような人とキリストが一緒に食卓を囲んだということは、キリストが彼らの存在を肯定しておられたからです。
宗教指導者には、罪人という存在を受け入れることはできませんでしたが、キリストだけは、罪人が罪人として生きなければならなかった余程の事情を、理解してくださったのです。
ここに、キリストの愛が表されています。
キリストは、ご自分を裏切った弟子たちの前に、何度も姿を現しました。
「あなたがた平和があるように」と繰り返し語り、一緒に食卓を囲んでくれました。
この一連の出来事は、キリストが弟子たちのことを完全に受け入れているしるしと言えます。
キリストは弟子たちにとっては苦い過去に一切触れることなく、ただ、弟子たちの存在と彼らの未来を肯定してくださいました。
このように、私たちの存在そのものを肯定し、私たちの人生をともに生きてくれるのが、愛のお方であるキリストなのです。