牧師ブログ

「王を求める民」

▶︎ 統治形態の変化
イスラエルの歴史上、大きな転換点の一つと言えるのが、統治形態の変化である。
士師というリーダーが治める時代から、イスラエルの王制の歴史がここから始まっていく。

そのきっかけとなったのは、士師職の継承に失敗したことにある。
サムエルの後を継いだ2人の息子たちは、民から賄賂を受け取り、不正を行なっていた。
そのため、イスラエルの長老たちはサムエルの2人の息子たちに代わって、国を正しく治める王を立てるようにサムエルに求めた。

サムエルの時代は民が堕落するだけではなく、祭司も堕落し、ついには士師までもが堕落するほど混沌としていた。
そういう中で、王を求めるようになったのは無理もなかったことかもしれないが、サムエルの目には長老たちの話は悪と映った。

それで、サムエルが神様に祈ると、神様は「彼らのすることと言えば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」とか「彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」と答えた。
これはつまり、神様の目にも、王を求める長老たちは悪と映ってということである。

それにもかかわらず、神様は意外にも長老たちの求めに応じるように言われた。
それはなぜか?
実は神様は、かつてモーセの時代に語った律法の中で「王に関する掟」を与えていた。
その掟によると、もしイスラエルに王が立てられるようになった場合は、神様が選んだ者を王としなければならないとか、必ずイスラエルの民の中から王が立てられなければならないとか、王に関していくつかのことが命じられている。

もし、王が立てられることが絶対的な悪だとすれば、神様は律法の中で「王は立ててはならない」と命じていたはずである。
しかし、神様は王に関する掟を与えていたように、王制という統治形態を否定しているわけではない。

問題は王制というシステムではなく、王を立てる人間の心にあった。

▶︎ 王を立てる民の心
王を求めた長老たちの問題が、彼らの発言の中に現れている。
長老たちはサムエルに対して「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」とお願いした。
この中の「ほかのすべての国々のように」という言葉に、彼らの不信仰が表されている。

イスラエルの長老たちが王を求めたのは「ほかのすべての国々のように」なりたいと思ったからである。
自分たちも他の国々のように、人間の王が武力や権力で支配する国際的な競争力を持った国になりたいと思った心に問題があった。

古代世界では、王制を採用する国はたくさんあって、国の統治形態としては主流だった。
ただしこの時、他の国々がどのように王による統治を行っていたのかというと、王が政治や経済、軍事など、国全体の絶対的な主権を持ち、王による独裁体制が取られていた。

もしイスラエルが律法に従わずに王を立てたり、律法から外れる王が立てられると、イスラエルの王も人間が絶対的な権力をもって、民を治める国に変わっていってしまう危険性があった。
それで神様は、王を立てることは認めたが、人間の王を立てることが何を意味するのか、民にしっかりと警告するようにサムエルに言われた。

▶︎ 取らずに与える王

イスラエルの長老たちが求めた「ほかのすべての国々の王」には、「取る」という権威が与えられていた。
男性であれば、兵士として徴兵されたり、もし戦場に行かないならば、農作業や武器などを作る任務が課された。
また、民は収穫した作物を没収されたり、税金として財産の中から十分の一を取り立てられたり、王の奴隷となり、王のために働くことを強いられた。

このように王は、個人の財産を国のために奪い取ることを、当然の権利として主張することができた。

ある1人の人間の権力が集中することは、とても危険なことである。
人間が絶対的な権力を持つことの問題は、人間がその権力を不正に用いてしまうことにある。
もし、本当の王である神様を退けて、人間の王が絶対的な権力を持って治めるようになると、国民は王の奴隷となるしかない。

そのため、イスラエルにとって重要なことは、統治形態ではなく、国の体制に関わらず、神様という本当の王のもとにリーダーが立てられ、国が治められることである。

神様を信じる信仰は、神様のことをこの世界の王として、また自らの人生の王として受け入れることにある。
私たちにとって、神様が王であるという信仰は、この世界と私たちの人生どういう意味をもたらすのか?
それは、すべてのものが主権者である神様のものであるということである。

私たちは自分が所有している物は、この社会の中では、所有権という権利を持っている。
だから、所有物を奪われたら、それを取り戻す権利がある。

しかし、神様の前では、私たちは自分の所有を主張できるものは何一つない。
お金や財産はもちろん、時間や賜物、命、人生…こういうすべては神様のものである。
もっと広く考えれば、この社会、この世界もすべて神様の主権のもとに置かれている。

神様はすべての主権を持っているおられるにも関わらず、人間の王のように「取る」という権利を行使することはない。
むしろ、神様は私たちにあらゆるものを与えてくださっており、私たちは、それらの管理を委ねられている。
だから、管理者である私たちは、王である神様の御心を求めながら、与えられているものを忠実に管理していくことが求められている。