牧師ブログ

「神様万歳」

神様はイスラエルの初代の王様として、サウルを選んだ。
サウルというと、どちらかというと悪いイメージの方が強い。
初めは、王としてのリーダーシップを発揮して、敵との戦いに次々と勝利を収めたが、のちに次の王になるダビデに妬みを抱き、ダビデを殺すために執拗に追い回したり、魔術に頼ったり、最終的には自ら命を絶ったように、王としては失敗者だったように見える。

だとしたら、なぜ神様はイスラエルが王制に移行するという大切な時に、初代の王としてサウルを選んだのか?
そこには、神様のどのような御心があったのか?

サウルという男

サウルに関して、聖書は「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と評しているように、いわゆるイケメンだった。
また、サウルは裕福な家庭に生まれ育ち、父親に従順で、家の使用人の言葉にも謙遜に耳を傾けたように、王としてふさわしい資質を持っていた。

しかし、サウル自身の自意識は低かった。
サウルが初めにサムエルに会った時に「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です」と話したように、自分のことをイスラエルの中でも最後尾にいるような者だとみなしていた。

その大きな理由は、遠くない昔に、同じベニヤミン族が起こした事件にある。
ある時、ベニヤミン族のリーダーたちが、一人の女性を殺すまでレイプするという衝撃的な事件を起こした。

すると、イスラエルの全部族とベニヤミン族の間で内戦が起こり、その結果、数的に不利なベニヤミン族は多くの民を失い、部族が滅亡する危機に追い込まれた。
また、イスラエルの中で「ベニヤミンに嫁を与える者は呪われる」という誓いがなされるほど、ベニヤミン族と他部族との間に確執が生じた。

この事件の影響により、サウルは、ベニヤミン族である自分がイスラエルの上に立ち、民を裁く王となることに大きな抵抗を覚えていた。

また、サウルは神様の命を受けたサムエルによって油を注がれ、王に任命された。
その後、サムエルがサウルが神様に選ばれた王であることを全国民に認めさせるため、全部族を集めたが、その時、サウルは集まった人々の荷物の間に隠れていた。
人々は、隠れているサウルを連れてきて、集まっている民の真ん中に立たせた。

この姿を見ても、サウルは、自分が神様から王として選ばれたことを受け入れることができなかったことがわかる。

なぜサウルなのか?

そうだとしたら、なぜ神様は、当時最も数が少なく、イスラエルの他部族からもよく思われていなかったベニヤミン族から、王を立てることにしたのか?

受験や入社試験、結婚相手など、人が誰かを選ぶ時には、試験や面談を行うように、普通は能力や性格、見た目などを見ながら選ぶ。
サウルも裕福さや従順さ、謙遜さを持っていたが、神様はそういう目に見える部分を見て、サウルを王として選んだわけではない。

神様の選びに関して、聖書の中に次のような言葉がある。

主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
(申命記7:7-8)
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
(コリントの信徒への手紙一1:26-29)

これを見ると、神様がイスラエルを神の民として選び、彼らを救ったのは、数の多さや強さによるのではない。
「ただあなたに対する主の愛のゆえに」とあるように、神様はひとえに愛のゆえにイスラエルを選んだのだ。
また「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」とあるように、神様が選んだ人に願っていることは「誇らない心」である。

神様の中には何か理由があるのかもしれないが、聖書は「選びの理由」については、はっきりと明らかにはしていない。
神様の選びについて、聖書が言っていることは「主の愛のゆえに」「誇ることがないようにするため」ということである。

私たちが何かの選びに与る時、なぜ自分なのか、なぜこの役割なのかと、理由や原因に心を囚われすぎる必要はない。
選ばれた者が確信すべきことは、自分が神様から愛されていること、そして、決して誇ることなく、与えられた任務を忠実に全うすることである。

選ばれた者をどう見るべきか?

サウルが民の前で王として立てられた時、すべての人々がサウルのことを歓迎したわけではなかった。
民の中には「こんな男に我々が救えるか」と言って、サウルを侮った人がいた。

そのようにサウル王を拒絶した人々が取った態度は、サウルを否定するだけではなく、神様を否定することだった。
なぜなら、サウルを王として立てたのは、人間ではなく神様だからである。
イスラエルの本当の王である神様を認めていなかったからこそ、サウルのことも王として拒絶することになったのである。

王国というのは、優秀な王が立てられるだけでは、決して存続していくことはできない。
王が悪を働かない限りは、その王の従い、仕える人々によって、王国は支えられ、守られる。
そこには、王に対する見方だけではなく、神様に対する信仰が必要である。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。(ローマの信徒への手紙13:1-2)

聖書は、この世のすべての権威は、神様によって立てられたものだと教えている。
サウルの場合は、直接、神様からの指名があったので、神様によって立てられたことは明らかだが、それ以外の場合でも、すべての権威が神様に由来しているのならば、神様が選んだと言える。
そうだとすれば、権威ある立場に立てられた人を闇雲に否定することは、信仰的に正しい姿勢とは言えない。

イスラエルの民は、サウルが公に民の前に出てきた時に「王様万歳!」と喜び叫んだが、人だけを見るならば、いずれその人の悪い部分に失望して「王様資格!」と叫ぶことになる。
本当の信仰は「王様万歳!」ではなく、「神様万歳!」と叫ぶことである。

日本にも、最近新しい首相が立てられたばかりである。
日本の首相は、国民投票ではなく、国会議員による投票によって選ばれるが、投票権がある議員を国民が選んだのだとすれば、投票権を持つ国民も選ぶことに関わっていると言える。
選ぶことに関わったのであれば、選ばれた人が気にくわないからと言って、鼻からその人を軽んじることは、神様の権威を否定することである。

誰かが選ばれる時、その選びに関わった人には、まず、神様によって立てられた権威を正しく認めることが求められている。
そして、神様の権威によって権力が正しく用いられることを願って、選ばれた人のために祈り、サポートしていくことが信仰者としてふさわしい態度である。