ヨハネの弟子からキリストの弟子へ
2024年が始まりましたが、皆さんの中で、この一年に対して何か求めているものがあるでしょうか?
今日分かち合う御言葉の中で、キリストはご自分についてくる人に向かって、そのことを問いかけました。
「何を求めているのか」と。
今日分かち合うのは、キリストが洗礼を受けた翌日に起こった出来事です。
洗礼者ヨハネという人は、ユダヤ社会に向かって「悔い改めよ。神の国は近づいた」と叫んでいました。
この叫びを聞いて、ユダヤの中から多くの人々がヨハネのもとに集まって来ました。
それでヨハネは、集まってきた人々に対して、洗礼を授けました。
この時、ヨハネが授けていた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言われるものです。
多くの人々が自分の罪を告白し、悔い改めのしるしとして、洗礼を受けていました。
このように、洗礼者ヨハネは、当時のユダヤ教の中で、新しい運動を起こし、社会に大きな影響を与えていました。
そうすると、ヨハネから洗礼を受けた人の中から、弟子となる人々が現れました。
普通、弟子というと、自分の能力やスキルを高めるために弟子となる人をイメージすると思いますが、当時、ヨハネの弟子となった人々には、それ以上に、社会に対する願いや期待がありました。
「この人についていけば、ユダヤ社会を変えることができるのではないか」という期待を持った人が、ヨハネの弟子となったのです。
今日の場面では、それまでヨハネに従っていた2人の弟子が、キリストに従い始めたことが書かれています。
普通、自分の弟子がいきなり、自分から離れていって、他の人の弟子になったらショックを受けると思いますが、ヨハネはむしろ、そのことを喜んだと思います。
なぜならヨハネは、イエスというお方こそ神様から遣わされたメシアであると信じていたからです。
2人の弟子がヨハネと一緒にいた時、目の前をキリストが通りかかりました。
そうするとヨハネは、キリストを見ながら「見よ、神の小羊だ」と言いました。
本来、神様と小羊という2つは、結びつくものではありません。
なぜなら、当時ユダヤで小羊というと、神殿でいけにえとして捧げられる動物だったからです。
しかしヨハネは、キリストが人々を救うために、血を流して犠牲になってくださることを知っていたのか、キリストのことを小羊に重ね合わせて「神の小羊だ」と告白しました。
この「神の小羊」というのは、ヨハネ独特の表現ですが、おそらくこの時、2人の弟子はその言葉をよく理解できなかったと思います。
それでも、2人は神の小羊という言葉を聞いてすぐに、キリストに従って行きました。
2人の弟子にとって、ヨハネの弟子からキリストの弟子になることは、大きな決断だったと思います。
なぜ2人は、これからイエス様に従っていく決断をしたのでしょうか?
この後2人は、実際にキリストから、そのことを問われることになります。
一泊した意味
キリストは従ってくる2人に「何を求めているのか」と問いかけました。
この「何を求めているのか」という言葉は、この福音書の中で、キリストが最初に発した言葉として出てくるものです。
キリストが「何を求めているのか」と言ったように、2人は何かを求めていたはずです。
何かを求めていたからこそ、ヨハネのもとを離れて、キリストに従おうとしたはずです。
それでは、その問いかけに対して、2人はどのように答えたでしょうか?
38〜39節を見ると、「何を求めているのか」という問いかけに対して、反対に「どこに泊まっているのですか?」と問いかけました。
そうすると、今度キリストは「来なさい。そうすればわかる」と言われたので、2人はそのままキリストについて行って、キリストが泊まっている場所を見ました。
そして、その日はキリストのもとに泊まりました。
この一連の出来事を見ると、少し不思議な感じがします。
「何を求めているのか」というキリストの問いかけに対して、なぜ2人の弟子は、キリストが泊まっている場所を尋ねたのでしょうか?
2人は、ただキリストが宿泊する場所について知りたかっただけなのでしょうか?
さらには、キリストは2人に自分が泊まっている場所を教えるだけではなく、その日、そこに泊めてあげました。
なぜキリストは、そのような行動をとったのでしょうか?
この出来事が何を意味しているのかを知るためには、2人の弟子が、キリストと一緒に泊まった後に起こったことに注目する必要があります。
40節をみると、この時、キリストについていった2人の弟子のうちの1人は、ペトロの兄弟であるアンデレだったことがわかります。
アンデレは、キリストと一緒に泊まった後、自分の兄弟であるペトロのところに行き、私はメシアに出会ったと話しました。
それからアンデレは、ペトロをキリストのところに連れて行きました。
注目すべき点は、この出来事の中に、キリストが自分の言葉で「私がメシアだ」とか、そういうことを教えている言葉が、何も書かれていないところです。
キリストが2人の弟子に対してしたことは、自分が泊まっているところを見せ、そこに泊めてあげたことです。
つまり、アンデレは、キリストについて行って、泊まっている場所を見たこと、一緒に泊まったことを通して、キリストがどういう方であるのかを知ったということです。
おそらく、アンデレははじめに「神の小羊だ」という言葉を聞いた時は、何のことかよくわからなかったと思います。
でも、キリストと一緒に泊まったことで、アンデレはイエスがメシアであることを確信したのだでしょう。
従うことの本質
実は、この「泊まる」という言葉は、この福音書を書いたヨハネが何度も福音書の中で使っている重要な言葉です。
「泊まる」という言葉は、他に「留まる」とか「つながる」という意味があります。
2人の弟子が、キリストについて行って、一緒に泊まって知ったことは、単にキリストの宿泊場所ではありません。
2人は、キリストがどこに留まっているのか、何につながっているのかを見たのです。
2人が見たのは、父なる神様の中に留まっているキリストであり、父なる神様とつながっているキリストの姿だったのです。
つまり、2人の弟子は、イエス様が父なる神様の中に留まっている姿を見たことによって、イエス様が父なる神様から遣わされたメシアであることを知りました。
それは何も、その日のことだけではありません。
この後、キリストの弟子となった人々は、約3年半もの間、キリストと一緒に生活を共にしました。
その中で弟子たちは、いつも父なる神様とつながり、父なる神様との愛の交わりの中にあるキリストの姿を見ていたと思います。
私たちにとって、キリストに従うということの本質は、ここにあります。
キリストを信じ、キリストに従うということは、キリストに留まることです。
キリストにつながり、キリストと関わり合っていくことです。
ここに出てくる「つながる」という言葉は、今日の本文に出てきた「泊まる」という言葉と同じ言葉が使われています。
つまり、キリストと一緒に泊まることは、キリストにつながることなのです。
キリストは私たちに対しても「何を求めているのか」と聞いておられます。
この問いかけに対して、私たちは、どのように答えるでしょうか?