牧師ブログ

「自分に正直でありたい」

【ヨハネによる福音書5:1-9】

1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

38年間、病気で苦しんできた人

皆さんには、本音で語り合うことのできる人は誰かいるでしょうか?

日本人は本音で語ることが苦手な民族だと言われることがありますが、信仰の世界では、本音で語ることが不信仰だとみなされることがあります。
不満を言ったり、文句を言ったりすることは控えるべきであって、神様の前ではいつも「信じます」「従います」という姿勢でいるべきだと。

皆さんはどう思うでしょうか?
どんなに厳しい状況の中でも、いつも強く立っていることが信仰でしょうか?

先ほど読んだ御言葉の中に、38年間、病気で苦しんできた人が出てきました。
当時のエルサレムには、病気の人や目が見えない人、足が不自由な人たちが集まるベトザタという池がありました。

この池には時々、天使が現れて、池の水をかき回し、水が動いた瞬間に池に入ると病気が癒されると信じられていました。
それで、病気や障がいを持った人々が、この池の周りに集まっていました。

その中に、38年間、病気で苦しんできた人もいましたが、彼はどうやら、足が不自由だったようです。

イエス様はその人が長い間病気であるのを知って「良くなりたいか」と聞きました。
普通、良くなりたいかと聞かれたら、どのように答えるでしょうか?

これは「はい」か「いいえ」で答えることができる問いかけですが、38年間、病気で苦しんできたとしたら、「はい、よくなりたいです」と答えるはずです。

しかし、7節を見ると、この病人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答えたのです。

「水が動いた時に池に入ると癒される」というのは、もちろん迷信ですが、彼は良くなりたいかどうかではなく、良くなることができない理由を答えました。

心の叫び

この態度を見ながら、皆さんはこの病人に対してどんな印象を抱くでしょうか?

この病人は、迷信を信じる人でした。
また「良くなりたいか」という問いかけを無視して、良くなることができない理由を不満として伝えました。

この態度は信仰でしょうか、それとも不信仰でしょうか?
おそらく、多くの人が不信仰だと考えると思います。
彼は迷信を信じる危ない信仰を持つ者であり、キリストに対してもただ不満を述べているだけだ、と。
ただ、彼が言った言葉を別の角度から見ると、それは彼の本心であり、本音でもあります。

この病人は、38年という長い間、病気で苦しんできました。
おそらく、これまで多くの医者にかかって、見てもらったと思います。
でも、全然良くならない、その原因もわからない、歩きたいけど歩けなかったのです。

特に、当時のユダヤ社会は、病人に対して優しい社会ではありませんでした。
病気や障がいは、罪と結びつけて考えられ、病気で苦しんでいるのは、罪のせいだとみなされました。
おそらくこの病人も、そういう周りの声に苦しめられてきたことと思います。

こういう背景を考えると、この病人がキリストに言った言葉は、迷信に基づいた不満であり、文句だと簡単に片付けることはできません。
それは、38年間、味わい続けてきた苦悩が詰まった言葉なのです。

もう彼には、迷信を信じるくらいしか、道がなかったのでしょう。
最後の望みをかけて、いつも池で待機しているのに、誰も自分を池に入れてくれる人がおらず、いつも他の人に先を越されてしまっていたのです。

彼がキリストに伝えた言葉は、彼の心からの叫びでした。

言葉の裏に隠されている心

それでは、キリストは彼の叫びに対して、なんと言われたでしょうか?
キリストは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。
そうすると、これまで悩まされ続けてきた病が癒やされ、彼は38年ぶりに歩くことができるようになりました。

キリストは、彼が迷信を信じていることについては、何も触れませんでした。
「池に入って癒されるはずがないでしょ? それは危ない信仰だ!」
「良くなりたいのであれば、良くなりたいと答えなさい!」

このようには、言われませんでした。
ただ「起き上がりなさい」と言いながら、彼の病を癒してくださったのです。

キリストは、これまで彼が負ってきた苦しみをよく知っておられました。
その言葉や態度を見たら、不信仰のように見えますが、キリストは、言葉の背後にある心を受け止めてくださいました。
キリストは彼の正直な思いを聞いて、これまでの苦しみや葛藤を全部理解してくださったのです。

多くの人は、この病人を不信仰だと断罪し、切り捨てるかもしれません。
言葉や行動など、目に見えるものだけで判断するのであれば、そうなるでしょう。

しかし、私はこの場面を見ながら、彼が本音でキリストと語ることができたことに意味があったのではないかと思います。

よく日本の社会は「本音と建前の社会」と言われます。
日本人は、建前というものを美徳とする世界観を持っている。

私は、そういう世界観を否定する気持ちは毛頭もありませんが、ただ、建前ばかりで生きていくことは、かなり辛いものがあります。
誰にも自分の本当の思いを打ち明けられないということで、1人で苦しみ、自分を責め、孤独になってしまいやすくなります。

神に問いかけながら生きる

なぜ私たちは、本音で語ることが苦手なのでしょうか?
本心を見せるということは、自分の弱さを表に出すことです。
そこには、相手に悪く見られたり、変に見られたりするリスクがあります。

本音を隠すということは、教会の中でこそ、もっとよく起こりやすいことかもしれません。
不満や文句を言えば、周りから不信仰な人扱いされてしまうからです。

しかし、私たちが神様の前で自分を偽ることには、何の意味もありません。
神様は、私たちの思い全てをよく知っておられます。

神様に対しては、何かを偽る必要も、隠す必要もありません。
隠す必要はないというよりも、隠すことはできません。

神様に対して、自分の本音を言った時、神様はどう思われるでしょうか?
神様から「そのような思いは捨てるべきだ」とか「それは不信仰だ」とか、私たちのことを責めるお方でしょうか?

キリストは、38年間、病気で苦しんできた人に対して「あなたの心は不満で満ちている」とか「そんなのは迷信だ」とか、そのようには答えませんでした。
彼が置かれてきた状況を理解し、彼の痛みを共に負ってくださったのです。

神様は、私たちが自分を偽ったり、飾ったり、強く見せたりするのではなく、神様に対しては、正直であってほしいと願っているのではないでしょうか?
もちろん、人に対しては配慮や気遣いが必要な時がありますので、何でもかんでも本音を露わにすればいいということではありません。
しかし、自分に対して、そして神様に対しては、正直でいていいのです。

こう考えると、信仰というのは、神様の前で「自分に正直に生きること」だと言えると思います。
神様に対して、偽りがないこと、計算がないことが信仰なのです。

そう言うと、こう反論されるかもしれません。
「人間は罪深いから、不満や文句ばかり言っていたら、悪い方向に言ってしまうのではないか?」と。

しかし、私が確信していることは、そこに神様がいれば大丈夫だということです。
神様に対して、自分の率直な思いをぶつけるのであれば、神様はそのまま聞いてくださいます。
そして、神様に問いかけ続けるとしたら、何かしらの形で神様は応答してくださるはずです。

神様は、私たちの正直な思いを聞きながら、その心を理解してくださるお方です。
だからこそ、私たちは自分を飾ることなく、ただ、自分に対して正直になることができます。
神様に対して問いかけながら生きていくのであれば、神様は私たちのことを気にかけてくださり、導いてくださるお方です。