牧師ブログ

「イエス、罪人の列に並ぶ」

【マルコによる福音書1:9-11】

9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ヨハネが授けていた洗礼

今日分かち合うのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場面です。
洗礼というのは、クリスチャンにとって第二の誕生日とも言われるように、神様の子供として新しく生まれることです。

洗礼者ヨハネという人は、もうすぐこの世の悪を裁くメシアが来ることを信じて、人々に洗礼を授けていました。
ユダヤ中から、たくさんの人々がヨハネのもとに来て、洗礼を受けていましたが、ある時そこに、キリストが現れました。

本当にたくさんの人々がヨハネのところに来ていたので、この時たぶんキリストは、洗礼を受ける人々の列に並んだと思います。
列に並んで自分の順番が回ってくるのを待って、そして、ヨハネから洗礼を受けたのではないか、と。

ただ、そもそもキリストは洗礼を受ける必要はありませんでした。
なぜなら、ヨハネが授けていた洗礼は「悔い改めの洗礼」だったからです。

もともと洗礼というのは、ユダヤ教の中のあるグループでは、清めの儀式として行われていたり、異邦人がユダヤ教に改宗するために行われていたものでした。
ヨハネはそこに「罪の赦し」という意味を込めて、洗礼を授けていました。

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。(マルコによる福音書1:4)

ヨハネは自分の罪を告白した者に対して、罪の赦しを得させるために、洗礼を授けていましたが、キリストには告白する罪がありません。
そもそも、キリストがメシアであるということの一つの意味は、罪を裁く権威を持っているということです。
キリストは罪がないだけではなく、罪を裁くことができる唯一のお方です。

それにもかかわらず、なぜ、キリストは罪の赦しを得るための悔い改めの洗礼を受けようと思ったのでしょうか?
しかも、わざわざ列に並んでまでして…

罪人の一人に

この時、ヨハネのもとには洗礼を受けるために、たくさんの人々が集まっていました。
多くの人々が、ヨハネから洗礼を受けるために、列に並んでいたと思いますが、キリストも同じように、その列の中に並んだということは何を意味するでしょうか?
それは、キリストが罪人の一人となったということです。

キリストは罪人の一人として、洗礼を受ける列に並び、罪人の一人として、ヨルダン川の水の中に入りました。
そして、水の中から上がった後も、キリストは罪人の一人として生きました。
キリストが苦しみを受け、十字架にかけられて殺されたのも、罪人としてでした。

キリストの生涯を見れば、罪のないメシアとして生きながらも、同時に、罪人の一人として生きたと言うこともできます。
罪人の一人となるということは、罪人と一つになるということでもあります。

そうだとすれば、キリストが洗礼を受けたという出来事は、天に属するキリストがこの地上で生きる罪人と一つになることであり、これはつまり、天と地が一つになることを示すことだったのです。

6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピの信徒への手紙2:6-8)

「人間と同じ者になられた」とか「人間の姿で現れ」という言葉は、罪人と同じ者になり、罪人の姿で現れたと言うことです。
そのように、キリストは天から私たちを見下ろしているのではなく、私たちと同じところまで、降りて来てくださいました。

キリストが人間として生まれたこと、洗礼を受けたこと、十字架で殺されたこと、これらの地上での歩みが指し示していることは、キリストが罪人と一つになってくださったということです。
キリストはこの地と一つであることを示すために来られた方です。

対等な関係で

当時のユダヤで罪人というのは、必ずしも犯罪者だけを指したわけではありません。
イメージとしては、できれば近づきたくない人、近づきがたい人のこと、社会から避けられるような人々のことだと捉えれば良いと思います。

キリストの地上での歩みを見たら、キリストはそういう人々に積極的に近づいていきました。
罪人は神に呪われた者として、人として完全に見下されていました。
ユダヤでは、罪人は汚れた人と見られていたので、罪人に近づくことは、ご法度です。

しかし、キリストは罪人に近づき、一緒に食事を分かち合いました。
それは、罪人を裁くためではなく、赦すためでした。

キリストは罪人と一つになってくださいました。
キリストは罪人である私たちと同じ立場に立ってくださるお方です。

もちろん、キリストは別に罪を犯しても大丈夫だよと教えていたわけではありません。
キリストは、社会から避けられ、見下されていた人々の心や気持ちを理解してくださいました。

そのように、人と同じ立場に立って、その気持ちを理解するというのは、私たち人間にとって、とても難しいことです。
だからこそ、この歴史の中で奴隷という存在が生まれてきたし、今でもまだ、いろんな差別が残っています。

誰かのことを見ながら、何で?と理解できないことがある。
しかし、キリストは私たちと同じ立場に立ち、私たちと対等に付き合ってくださる方です。

天と地が一つに

次に、キリストが洗礼を受けた時に起こった2つの出来事について見てみましょう。
1つは、10節に書かれていることで、イエス様が水の中から上がると、天が裂けて、霊が降ったこと、また、もう一つは、11節の出来事で「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたことです。

天が裂けて、キリストの上に聖霊が降されたということは、天と地が一つにされることを意味します。
聖書を見ると、イエス様が十字架で殺された時、同じように天が裂けるような出来事が起こりました。

37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。38すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マルコによる福音書15:37-38)

神殿の垂れ幕というのは、神様と人間との関係を意味するものです。
神様と人間の間には、罪によって大きな壁、隔たりがあります。
罪ある人間は、本来は、神様に簡単に近づくことはできません。

しかし、イエス様が十字架で殺された時、神殿の垂れ幕が引き裂かれました。
これは、神様と人間との隔たりが引き裂かれたということであり、天と地が一つになる出来事です。

キリストが洗礼を受けた時に天が裂けたというのは、天と地が一つになる出来事であり、その後に霊が下されたということも、天と地が一つになることです。

私たちがこうして礼拝を捧げられるのは、神様との間にあった罪による隔たりが取り去られたからです。
それによって神様との自由な関係が与えられ、聖霊によって、神様を礼拝し、祈ることができます。
今、こうやって礼拝することも、天と地が一つになったことを示すことです。

「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイによる福音書6:10)

天でなされていることがこの地でもなされるように、2024年、天と地がさらに一つとされることを祈っていきたいと思います。