イエスの塩対応
キリストはカナンの女性に対して「あなたの信仰は立派だ」と言われました。
皆さんは自分自身の信仰を見て「わたしの信仰は立派だ」と思うでしょうか?
その反対に「わたしの信仰は立派ではない」と思うでしょうか?
今日の聖書箇所は、キリストがカナンの女性の娘の病を癒してくださるという奇跡の話です。
2週間前は、キリストが男だけで5000人もの人々をお腹いっぱいに食べさせた奇跡、先週は、弟子たちを助けるために、キリストが水の上を歩いた奇跡をメッセージで分かち合いました。
この2つの奇跡と今日の聖書箇所にある病を癒す奇跡とで、大きく違うところがあります。
それは、キリストが驚くほどに塩対応をしているところです。
女性は、キリストの後を追いかけながら「わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫び続けました。
この女性に対して、キリストは、はじめは無反応でした。
でも、ずっとその女性が叫びながら付いてくるので、キリストは「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。
これは「異邦人は私の担当ではない」ということです。
それでも女性は「どうかお助けください」と助けを求め続けましたが、キリストは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と、さらに強い言葉で女性に答えました。
小犬というのは、当時、ユダヤ人が異邦人に対して使っていた侮辱的な表現です。
この対応を見ると、これまでのキリストと違うように見えます。
5000人の人々に対しては、お腹いっぱいになるまで食べさせてあげました。
弟子たちが舟の上でさまよっていた時、キリストは水の上を歩いて弟子たちのところに駆けつけ、助けてくれました。
この2つのことは、向こうから求められて行ったことではなく、キリストが自ら行ったことです。
しかし、助けを求め続けるカナンの女性に対しては、キリストはなぜか冷たい対応をしています。
それは異邦人だったからでしょうか?
しかし、マタイによる福音書の8章を見ると、キリストが異邦人を癒した話が書かれています。
異邦人であるローマの百人隊長が、自分の部下の病気を癒してほしいとキリストのもとに来ました。
そうすると、キリストは「わたしが行って、癒してあげよう」とすぐさまに答えました。
これを見る限り、キリストは異邦人を差別的に扱っていたわけではありません。
福音書の中で、キリストが自分のところに助けを求めにやってきた人を拒否したことは、このカナンの女性以外にはいません。
そうだとしたら、なぜこの女性だけはダメだったのでしょうか?
これに対して、私も何か答えを持っているわけではなく、いつか天でキリストに会った時に、直接聞いてみたいことのひとつです。
想像することしかできませんが、もしかしたら、キリストはこの女性の信仰がどのようなものであるか知りたくて、あえて冷たく接したのかもしれません。
もしくは、キリストに必死に助けを求める異邦人の信仰を、弟子たちに見せたかったのかもしれません。
本当のところはよくわかりませんが、しかし最終的には「あなたの信仰は立派だ」と言って、キリストは女性の娘の病気を癒してくれました。
それでは、キリストはこの女性のどこを見て、立派な信仰だと言ったのでしょうか?
カナンの女性が持っていた信仰とは、どういうものだったでしょうか?
「わたし」を憐れんでください
「信仰」という言葉は教会でよく聞く言葉の一つですが、そもそも信仰とは何でしょうか?
信仰とは…
「キリストを信じること」「キリストを愛すること」「キリストと共に生きること」「キリストに従うこと」
このように、信仰についていろんな答え方ができて、どれも正しい答えだと思います。
普通、キリストに何か言われたら「はい、わかりました」と言って、素直に従うことが立派な信仰のように思えます。
「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたら、「はい、わかりました」と言って、諦めて帰ることがキリストに従うことのように思えます。
自分の願いを捨てて、キリストの言葉に従うことが信仰だと。
でも、この女性は、最後までキリストが言うことを聞きませんでした。
それにも関わらず、なぜ彼女は立派な信仰だと言われたのでしょうか?
この女性が言った2つの言葉に注目してみたいと思います。
1つは22節の「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という言葉です。
この言葉は、少し不自然な表現です。
なぜなら、この時に助けを必要としていたのは、この女性の娘です。
そうであるなら「わたしを憐れんでください」ではなく「わたしの娘を憐れんでください」と言うはずです。
でも、この女性は「わたしの娘」ではなく「わたしを」憐れんでくださいと叫びました。
この女性は病気の娘ではなく、母親である自分に対して憐れみを求めたのです。
それは、憐れみを必要としていたからでしょう。
目の前で娘は病気で苦しんでいるのに、母親である自分は娘のために何もしてあげられない。
彼女は、病気で苦しむ娘の前で、自分の無力さを感じていたと思います。
だからこそ、彼女は「わたしを憐れんでください」と自分自身への憐れみをキリストに求めたのです。
「わたしにはどうすることもできません。なんとか助けていただけませんか。」
これが「わたしを憐れんでください」という言葉に込められた女性の心の叫びでした。
この「わたしを憐れんでください」と言う言葉こそ、信仰の本質をついている言葉です。
私たちが神様にキリストに対して求めることのできる1番のものは、この憐れみです。
キリストはすべての人を憐れんで、助けてくださるお方です。
受けて当たり前ではない
この女性の信仰を表すもう1つの言葉は、27節です。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
キリストは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言いましたが、普通そんなこと言われたら「じゃあ、もういいよ」と怒って、そこから出て行ってしまうでしょう。
しかし彼女は、小犬だと言われた時、それでも小犬は食卓から落ちるパン屑はいただけるじゃないですかと、キリストに食い下がりました。
この時の彼女の心の中を想像してみると…
「わたしは異邦人なので、ユダヤ人のようにパンをもらう資格はありません」
「与えられて当たり前ではありません」
それでも
「あなたは、本来、受ける資格はないわたしのようなものも憐れんでくださるお方だと信じます」
「小犬のようなものをも、あなたは憐れんでくださるお方です」
これが、彼女の信仰だったと思います。
「自分は受けて当たり前でしょ」と言う姿勢ではなく「自分には受ける資格はないけど、それでも、キリストは自分を憐れんでくださる」ことを信じたのです。
私たちの中に、神様に対して「神様であるならば、私の願いを聞いてくれて当然だ」という思いがあるかもしれません。
もし自分の祈りが聞かれなければ、自分の願い通りにならなければ「そんな神は信じる価値はない」と考えたくなるかもしれません。
そのように、受けて当たり前の信仰になると、神様に対して「わたしを憐れんでください」と祈り求めることは難しくなります。
神様に憐れみを求めるのではなく、神様のことを諦める方向に行くでしょう。
しかし神様は、受けるに値しないものだからこそ、恵みを与えてくださるお方です。
その神様に対して「わたしを憐れんでください」と求めながら生きていくことが、信仰の道です。