キリストによる脅し?
これはキリストが語った「金持ちとラザロ」のたとえ話ですが、この中で天国と地獄のようなところが出てきています。
貧しいラザロは天国に行きましたが、金持ちは地獄に行くことになりました。
金持ちは、あまりの苦しみになんとかそこから抜け出したいと願って、天国にいるアブラハムに直談判しましたが、彼の訴えは受け入れられませんでした。
この一連のたとえ話は何を伝えようとしているのでしょうか?
「地獄はこんなにも苦しいところだから、生きているうちに神を信じなければ天国に行けませんよ!」ということを伝えるために、キリストが地獄の苦しみをちらつかせて脅そうとしてたわけではありません。
キリストが語っていることを理解するためには、その話を「誰に向かってしているのか」というところをしっかりと押さえておく必要があります。
この箇所の直前を見ると「お金に執着するファリサイ派の人々」が出てくるように、キリストは、彼らに向かって金持ちとラザロのたとえを語っているのです。
金持ちの姿をファリサイ派の人々に重ね合わせながら、キリストは彼らに何かを伝えようとしているのです。
死後の世界の前に、この世の現実を
このたとえ話を整理すると、ある金持ちの人はいつも高価な服を着て、毎日、贅沢な暮らしをしていました。
この金持ちの家の前に、貧しい暮らしを強いられていたラザロが食べ物に困って、物乞いに来ていました。
しかし、金持ちはラザロのことなど気にもかけませんでした。
やがて、この二人が死ぬと、ラザロは天国に行き、金持ちは地獄のようなところに行きました。
燃え盛る炎の中で、金持ちは苦しみ悶えますが、時すでに遅しでした。
この金持ちが地獄に行くことになった理由はどこにあったのでしょうか?
また反対に、なぜラザロは天国に行くことができたのでしょうか?
この話の中で、二人に関して、なぜ二人がそれぞれ天国と地獄に行くことになったのか、詳しく説明されていません。
おそらくキリストが語ろうとしていることは、こういうことでしょう。
「死後の世界のことを考える前に、まず、この地上での現実から目を逸らしてはならない。」
それはつまり、金持ちがラザロとどのように関わっていたのか、ということに繋がる話なのです。
無関心によって傷ついた世界の回復
金持ちとラザロの二人の関わりにおいて、金持ちは貧しさゆえに苦しんでいるラザロの姿を見ながらも、彼に対して何の関心も抱きませんでした。
当然、金持ちは、いつも自分の家の門の前に来て、物乞いをしているラザロの存在を知っていたでしょう。
しかし、金持ちはラザロという存在を無視したのです。
ラザロがこの地上で味わっていた苦しみは、単に貧しくて食べられないという肉体的な苦しみだけではなかったでしょう。
それ以上に、誰も自分のことに関心を払ってくれない、見向きもしてくれないということの方が、ラザロにとってよっぽど辛いことだったのだと思います。
金持ちがラザロのことに何の関心も払わなかったように、まさにファリサイ派の人々も、罪人や徴税人、貧しい人々、病気の人々、悪霊に取りつかれた人々など、いろんな理由で苦しむ人々を見ながらも、彼らの苦しみを理解しようとはしませんでした。
ファリサイ派の人々は、たとえ長い間、病気で苦しんでいた人が、キリストによって癒されたとしても、喜びませんでした。
悪霊に取りつかれていた人が、キリストによって解放されたとしても、喜びませんでした。
律法を守らず、神に背いて生きてきた人々をキリストが優しく迎え入れていることを怪訝に思い、抗議しました。
なぜなら、彼らの関心が、律法に照らし合わせてこの人は正しい人かどうか、これは正しい行為かどうかという「正しさ」にあったからです。
さらには、人ではなく、お金というモノに執着していたからです。
正しさを基準にして生きるようになると、また、お金を一番に考えて生きるようになると、人に対して冷たくなっていきます。
そうすると、周囲の人に対して関心を持つことも難しくなります。
人々の無関心によって、この世界は多くの傷と痛みを負ってきました。
それを癒すことができるのは、キリストがされたように、温かい目線と人々への関心によるのです。