牧師ブログ

「神の子として生きる」

霊に導かれた「誘惑」

マタイによる福音書の4章には、全部で三回、キリストが悪魔から誘惑を受ける場面が描かれている。
この場面について「悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とあるように、神様ご自身が、悪魔から誘惑を受けるようにキリストを導かれたことがわかる。
つまり、キリストが悪魔から誘惑を受けたことには、神様の計画と目的があったことを意味している。

それでは、その目的とは一体何だったのか?
それを知るためには、父なる神様が、キリストをこの地上に遣わしたそもそもの目的を考えてみなければならない。

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。(ヨハネの手紙一3:8)

キリストがこの世に現れた一つの目的は、悪魔の働きを滅ぼすためだった。
新約聖書の中にも、キリストが人々から悪霊を追い出すシーンがよく出てくる。
キリストは、悪魔と直接対決をすることによって、誰が本当にこの世を支配する者であるのかを明らかにしようとした。
キリストは、この世を支配しようとする悪霊に対して、本当の支配者が誰であるのかを示す存在なのである。

キリストが悪魔から誘惑を受けたのは、洗礼を受けた直後、公の働きを始める前であった。
キリストと悪魔の対決に、最終的な決着が着くのは、十字架の死と復活の時であるが、公の働きを始めるにあたって、キリストが悪魔から誘惑を退けたという出来事は、キリストこそが本当の世の支配者であることを前もって明らかにした出来事であった。

悪魔の狙い

それでは、悪魔はどのようにキリストを誘惑したのか?
キリストは誘惑を受ける前に、40日にわたって断食をしていた。
悪魔は、断食後、空腹状態だったキリストに近づき、誘惑した。
つまり、悪魔は、人間の弱さに付け入って誘惑をしてくるということである。

私たちが空腹の時、疲れている時、落胆している時、感情的になっている時、こういう人間が弱くなる瞬間を、悪魔は虎視眈々と狙っているのである。

悪魔がキリストを誘惑するために掛けた言葉は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」というものだった。
ただ、考えてみたら、これのどこが誘惑なのだろうか?
石をパンに変えたとしても、別に誰かを傷つけるわけではなく、罪とは何の関係もないように見える。

なぜこれが誘惑であるのか、キリストが悪魔に答えた言葉を聞いてみるとわかってくる。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

これによると、悪魔の誘惑は「人をパンだけで生きるようにさせる」ことだったことがわかる。
つまり、悪魔の狙いは「パンが欲しかったら自分で手に入れればいいさ」「パンさえあれば、あなたは幸せに生きられるんだよ」と、キリストをただパンによって生きるようにさせることだった。

「空腹で食べ物が欲しいでしょう? でも、あなたがそうやって苦しんでいても、神はあなたを助けてくれないよ。」
「あなたには石をパンにする力があるじゃない。だったら、神の助けなんて待ってないで、自分で必要なものを手にしながら生きればいいじゃない。」

こうやって、悪魔はキリストに父なる神様への不信感を抱かせて、自分の力で生きるように私たちを誘惑している。
悪魔にとって、私たちが法律に引っかかる罪を犯すかどうかは、実はどうでもいいことである。
悪魔が人を誘惑する目的は、私たちが神様に不信感を抱き、神様を憎み、自分の力で生きていくようにさせることにある。

何によって生きるのか?

悪魔の誘惑を受けた時、キリストは、自ら石をパンに変えて、空腹を満たすこともできた。
父なる神様の助けを待つことなく、自力で空腹問題を解決すればそれでよかった。
しかし、キリストはその奇跡的な力を使わなかった。
なぜなら、キリストは自分で石をパンに変えなかったとしても、父なる神様が自分を養ってくださることを信じていたからである。

もちろん、この出来事は、別にパンなんてなくても生きていけるということを教えようとしているわけではない。
当然、キリストも私たちも、人間としての肉体を持っている限りは、パンが必要であり、食べなければそのうち栄養失調で死んでしまう。

だから、私たちは神様に対して、物質的な必要を求めてもよいのである。
むしろ、必要なことがあれば「求めなさい。そうすれば、与えられる。」という約束の御言葉を信じて、信仰によって求めるべきである。
しかし、その時に、そういう物質的なものが、私たちの命を救ってくれるわけではないことをわきまえておくべきである。

現代は「自分が願うことをかなえていく」という自己実現を追求する生き方が、一般的な価値観として広く受け入れられている。
それで悪魔も、私たちに「自分が願うものをその通り手に入れて生きることが、最高の人生だ」という考えを抱かせようとする。
悪魔としては、私たちが罪を犯さなくても、道徳的に退廃した人にならなくても、このように思わせることができれば、大成功である。

私たちが信仰を持って生きるならば、当然そこには、キリストのように神の子ゆえに受ける誘惑や試練がある。
だから、誘惑や試練によって葛藤を感じることは、私たちが信仰によって必死に生きようとしている一つのあかしとも言える。

大切なことは、どんな時でも神様から離れることなく、いつも神様との交わりに生きていることである。
神の口から出る一つ一つの言葉こそが、私たちを本当にキリストの命に生かしてくれるのである。