牧師ブログ

「何を願って生きるのか?」

「求めなさい」

神様はイスラエルの王となったソロモンに「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。
この言葉は私たちの心をワクワクさせるような言葉だが、同時に、恐ろしい言葉でもある。
なぜなら、これにどう答えるかによって、私が何に関心を持ち、何を願って生きているのか、私たちの心の中心に何があるのかが明らかにする言葉だからである。

そもそも「願いを持つこと」自体をどう考えるべきなのか?
私たちは願いを持って生きていくべきなのか、それとも、なるべく願うことなく無心で生きていくべきなのか?

聖書には「求めなさい」「願いなさい」という言葉が、多く記されている。

「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書7:7)
「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(ヤコブの手紙1:6)

聖書は、私たちが神様に対して、信仰をもって願い求めるように教えている。
それは、神様が私たちの願いに応えて、与えることを願っているということでもある。

長年、信仰生活を送っていると、神様は自分が願ったことをかなえてくれることもあるが、そうじゃないこともあると経験則的に知るようになる。
だからと言って、何でもかんでも、最初から「与えてくれても、与えてくれなくてもどちらでも構わない」という姿勢は信仰とは言えない。

なぜなら、これは神様ご自身を軽んじる態度であり、神様に期待しないことだからである。
こういう心は、期待して裏切られることのないように、自分のことを守ろうとする心から出てくるものである。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマの信徒への手紙8:32)

神の独り子であるキリストでさえも惜しまずに与えてくださった神様は、御子と一緒にすべてのものを与えてくださる神様である。
神様が「求めなさい」「願いなさい」と言われるのは、神様には私たちが願ったものを与える豊かさがあるからであり、与える準備があるからである。

神様というのは、実に与えたがりの神様なのである。

ソロモンが願ったこと

そこで問題となるのは、じゃあ私たちは、神様に何を願い求めるべきなのかということである。
豊かに与えてくださる神様の前で、何を願って生きていくべきなのか、具体的に考えてみなければならない。

「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」という言葉に対して、ソロモンはどのように答えたのか?
ソロモンが願い求めたのは「聞き分ける心」だった。
ソロモンは、イスラエルの王として、民を正しく裁き、善と悪を判断するための心を神様に求めた。

この答えを見ると、ソロモンの関心がどこにあったのかがよくわかる。
ソロモンは、自らの支配や権力ではなく、民にとって必要なことを求めたのである。

イスラエルの王というのは、他の国の王とは全く異なる立場に置かれていた。
イスラエルの本当の王は、天におられる神様である。
なので、イスラエルの王は、民との関係において言えば王だが、神様との関係において言えば、その真逆の僕という立場に置かれているのである。

ソロモンはこのことをよくわきまえていて、それを表すようにソロモンが神様に答えている言葉の中には「僕」という言葉が繰り返し出てくる。
つまり、ソロモンは王であり、同時に僕という立場から、神様に願い求めたのである。
そのために必要なものが、聞き分ける心だった。

ソロモンの心の中心に何があったものは何だったのか?
それは、神様の僕として、神様に仕えて生きていくことだった。
ソロモンの願いは、言い換えれば、神様に仕えて生きていきたいというものだった。

「求めなさい」という言葉を聞いて、私たちに問われていることは、神様に仕えて生きていくことを願っているかどうか、ということである。

願い求めた以上の祝福

ソロモンが神様に「聞き分ける心」を願い求めた時、神様はその願いを喜ばれた。
神様はソロモンに「知恵に満ちた懸命な心を与える」と言いながら、ソロモンの願いに答えてくださった。
また、ソロモンが求めなかった富や栄光までも与えると言われた。
さらには、神様の掟と戒めを守るのであれば、長寿をも恵もうと約束してくださった。

ソロモンが神様の僕として仕えたいと神様の前に願った時、神様はソロモンが求めた以上のことを与えると言われた。
これが意味していることは何か?
それは、神様はご自身に仕えて生きていきたいと願う者に対して、求められた以上のものを豊かに与えてくださるということである。

「…得られないのは、願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブの手紙4:2-3)

私たちが得られない一番の原因は、そもそも願い求めないからである。
もし、願い求めても与えられないとしたら、それは動機が間違っているからである。
動機が間違っているというのは、神様に仕えるため、人々に仕えるためではなく、ただ自分の楽しみのために願う。

私たちが何かを願う時、根本的に問われていることは「あなたは神様に仕えて生きていくことを願っていますか?」それとも「自分自身に仕えて生きていきたいと願っていますか?」ということである。
神様に願う時、「熱心さ」や「切実さ」以上に大切なことは、私が神様の僕として生きているか、神様に仕えて生きていきたいと願っているかという「真実さ」である。

新しい年の始まりにあたって、私たちの心の中には、いろんな願いが湧き上がってくる。
私たちが「神様の僕」として神様の前に立ち、何かを願うのであれば、神様は求めた以上のもので豊かに満たしてくださる。
これが、神様に仕えて生きていく者に与えられる祝福である。