牧師ブログ

「ただそこにいるということ」

17七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」18イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。19蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。20しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカによる福音書10:17-20)

「喜びなさい」の考察

今日の本文の中に「喜び」に関する言葉が3回出てきますが、皆さんは普段、どんなことに喜びを感じることが多いでしょうか?
もちろん、何を喜びとするかは人それぞれで、美味しいものを食べることに大きな喜びを感じる人もいれば、反対に全く食に興味がない人もいます。
インドア派の人であれば、静かに映画を見たり音楽を聞いたりすることに喜びを感じるでしょうし、アウトドア派の人であればスポーツをしたり、友達とどこかに出かけたりすることに喜びを感じると思います。
どんな喜びであっても、どれがレベルが高いとか低いとかはないはずで、人を傷つけることで得る喜びでなければ、いずれの喜びも尊いものだと思います。

このように、人それぞれ喜びを感じるポイントに違いはありますが、一つ言えることは、どんなことに喜びを感じるかによって、その人が人生の中で何を大切にしているのかが見えてくるということです。

聖書の中で「喜びなさい」と言われている箇所を見ると、その多くは「迫害」との関わりの中で述べられていることがわかります。
「喜び」という言葉が10回以上出てくるフィリピ書は、激しい迫害下に置かれていた信徒に向けて語られたものです。

また、福音書の中でイエス様が「喜びなさい」と言っておられる場面が二つあって、一つが今日の箇所で、もう一つは山上の説教に出てきます。
いわゆる「八福の教え」と言われる最後で、迫害について述べている中で、イエス様は「喜びなさい」と言っておられます。

つまり、聖書の中で「喜びなさい」と語られている箇所で言い表されている「喜び」というのは、迫害の裏にある「悪の力」に対抗する大きな武器としての喜びだと言うことができます。
ここでのポイントは、悪の力から解放されて初めて喜びが生まれるのではなく、悪の力の影響を受けていたとしても、それでも喜びなさいという部分です。

人間の喜び

今日の聖書箇所では、イエス様は、悪の力に打ち勝つ体験をした弟子たちに対して「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」と言っておられます。

この言葉は、イエス様がこれから行こうとしていた町や村に前もって遣わした72人が、働きを終えて戻ってきた時に、イエス様が彼らに語った言葉です。
72人の弟子たちは、それぞれ遣わされたところで、病人を癒したり、悪霊を追い出したり、そういうイエス様がされていたような働きをしたようです。
17節のはじめに「72人は喜んで帰ってきて」とあるように、彼らの働きには、豊かな実りがあったようです。

それで、彼らはイエス様のところに帰ってきて、開口一番に言いました。
「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

おそらく弟子たちは、イエス様の名前を使って、人々に取りついていた悪霊を追い出す働きをしていたのでしょう。
そうすると、悪霊さえも屈服することに驚き、特にそのことに喜びを感じていたようです。

18節と19節で語られているイエス様の言葉を聞くと、確かに、イエス様は唯一、悪霊を屈服させる力と権威を持っておられるお方で、その力を弟子たちにも授けてくださったことを明らかにしています。
72人の人々は、これまでイエス様が悪霊を追い出す場面を見たことがあったと思いますが、彼らはそれが自分たちにもできたということに感動と興奮を覚えていたようです。

しかし、喜び勇んで帰ってきた弟子たちに対して、イエス様は言われます。
「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

イエス様は悪霊が屈服することではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜ぶようにと言われたのです。

神様の喜び

確かに、イエスの名によって悪霊を屈服させる力というのは、人間の力ではなく、神様から来る信仰による力であり、否定されるべきものではありません。

ただ、ここでイエス様は、本当に喜ぶべきことは何かということを言わんとされているようです。
「本当の喜びは、信仰によって新たに力を得たことや、その力によって大きな成果を挙げたことにあるのではない。名が天に書き記されていることにあるのだ」と。

ここでイエス様が言っておられる「名が天に書き記されている」というのは、どういうことでしょうか?
もっとも簡単に言えば、それは「救われている」ということになりますが、これは言い換えれば、神様によって私という一人の名前が覚えられているということです。
今日の本文に出てくる72人の人々の名前は書かれていないので、私たちにはわかりません。
そして、なぜ彼らの名が天に書き記されるようになったのかも、詳しくはわかりません。
一つだけはっきり言えることは、神様は彼ら72人ひとりひとりの名前を覚えておられたということです。
神様が私たちの名を覚えてくださっているということは、この私が私として存在していることに意味があるということです。

イエス様は、私たちがイエス様の名前によって何か特別な力を得たり、その力によって働きの成果を出すことに注目しているわけではなさそうです。
もちろん、イエス様の名によって、イエス様を信じる信仰によって、これまでできなかったことができるようになること、働きに実りが結ばれることは素晴らしいことです。
ただ、私たちの喜びの根拠は、そういう力や働きにあるのではなく、存在にあるのだとイエス様は言っておられるのです。

神様は私に何ができるのか、何をしたのかということではなく、私という存在に注目しておられるお方です。
この私がここに私として存在していることが、神様にとって、天における最大の喜びなのです。