牧師ブログ

「エルサレムを目指して」

51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。55イエスは振り向いて二人を戒められた。56そして、一行は別の村に行った。57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」59そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカによる福音書9:51-62)

どこを目指して歩むのか?

皆さんの中には、人生を歩んでいく上で、何か目標みたいなものがあるでしょうか?
学生であれば卒業や就職、専門職の世界で言えば医者や弁護士、プロアスリートになることなど、人それぞれいろんな目標があるでしょう。
そのように多くの人が目標を持って歩んでいるのは、目標がない人生には、なかなか生きづらいものがあるからだと思います。
そこで大切になることは、じゃあどこを目指して歩むのかということです。

今日の本文には、この地上において、キリストが目指していた目標が明確に書かれています。
51節と51節を見ると「エルサレムに向かう決意」、「エルサレムを目指して」という言葉があります。
キリストにとってエルサレムというのは十字架が待ち受ける場所であり、つまり、キリストは十字架という目標に向かって歩んでいたと言うことができます。
この地におけるキリストの生涯は、十字架への道だったのです。

十字架への道

十字架への道というのはどのような道だったのでしょうか?
それは、人々からの拒絶に満ちた道です。

このことは、キリストがこの地に誕生した時からすでに始まっていました。
キリストが誕生した場所は、本来、人間を出産する場所ではない家畜小屋でした。
聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と書かれているように、キリストは拒絶され、家畜小屋に追いやられたのです。

さらには、当時のユダヤを統治していたヘロデ王は、ユダヤの王として生まれてきたばかりの幼子イエスを殺そうとしました。
そのため、両親は生まれたばかりの幼子イエスを連れて、遠くエジプトへと避難し、ヘロデが死ぬまで難民として生活することを強いられたのです。

そして、キリストの生涯において、もっとも激しく拒絶された出来事が十字架です。
ユダヤの特に宗教指導者たちは、イエスがメシアであるということに「NO!!」を突きつけた結果、キリストは十字架で処刑されました。

このようにキリストの生涯は、拒絶に満ちていたことがわかります。
このような歩みについて、58節の中でキリストは「人の子には枕する所もない」という言葉で表しています。

私たち人間にとって、そのように自分の存在を否定されること、拒絶され、ひとり孤独に生きていかなければならないことほど、辛いことはないと思います。
そのため、しばしば拒絶は死へと行き着くのです。

キリストに従う道

そうだとすれば、私たちがキリストの後に従って歩むということは、拒絶や孤独に満ちた人生を生きることになるのでしょうか?
本文の中で、キリストに従おうとした人々に対する、キリスト自身の言葉を見てみましょう。

57節以降には、3人の人が出てきます。
最初の人は、自らキリストに従うことを表明しましたが、それに対してキリストは「人の子には枕する所もない」と答えました。
2人目は「わたしに従いなさい」とキリストの方から呼びかけられました。
そうすると、その人は「まず、父を葬りに行かせてください」と求めましたが、キリストは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。
3人目は自分の方から従うことを表明しましたが、その前にまず家族に別れの挨拶に行かせてほしいと頼みました。
それに対してキリストは、後ろを顧みる者は神の国にはふさわしくないと言われました。

この後、実際にこの3人がキリストに従ってついて行ったのかは定かではありませんが、このやり取りを見る限り「わたしには従うことは難しい」と感じてしまうでしょう。
父の葬儀を諦めろとか、家族とも最後の挨拶さえできないとか、かなり厳しいものがあります。

ただここでキリストが伝えたかったことは、家族なんてどうでもいいということではなかったでしょう。
それ以上に、キリストに従うということには、それだけの犠牲が伴うということだと思います。

神の国を目指して…

それでは、私たちがキリストに従おうとする時に求められることはなんでしょうか?
何があったとしても、拒絶されても、孤独になっても、それに打ち勝つ忍耐力、精神力、意志の強さでしょうか?
もしそうだとすれば、キリストに従うことは、メンタルの問題になってしまいます。

そういうものには個人差があり、単に信仰の問題ではなくなってしまいます。
神様の前に覚悟や決意は固めることは尊いことだと思いますが、こういう人間の意志から出てくるものは弱く、崩れやすいものであることもまた事実です。

そこで目を向けるべきところが、キリストが目指したエルサレムです。
60節と62節で、キリストに従おうとする人に対して、キリストは「神の国を言い広めなさい」、「神の国にふさわしくない」と答えています。
エルサレムに向かう十字架への道は、キリストに与えられた道です。
拒絶と孤独に満ちた生涯は、私たちの代わりにキリストが負ってくださった道です。
私たちにそのような道を歩ませないために、キリストはその全てを背負って、十字架へと向かって歩んでくださったのです。

私たちが目指すべきところ、それは神の国です。
神の国とは、神様が愛をもって治める世界、神様がいずれ完成させてくださる世界、神様と永遠に共に生きる世界です。
神の国はキリストによってすでにこの地に来ましたが、いまだ未完成の世界です。
私たちは、いつか、神の国が完成する時を待ち望みながら、この地上での生涯を生きていくのです。
神の国という目指すべき明確な道があるからこそ、私たちは地上での歩みを忠実に歩んで行くことができるのです。