牧師ブログ

「生け捕り」

1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

「先生」

ペトロを代表とする漁師たちが、イエス様の弟子として召される場面は、マルコやマタイも記していることですが、ルカだけは彼らとは異なり、大漁の奇跡の話を挿入しています。
ルカの記事を見ると、弟子の中でも特にペトロに焦点を当てて書いています。
おそらくルカは、大漁の奇跡によってペトロがどのように変わり、イエス様に従っていったのかという「変化」を描き出そうとしたようです。
ペトロとイエス様との関係の変化は、イエス様がどのようなメシアであったのかを明らかにしています。

ガリラヤ湖に来たイエス様は、岸に泊まっている二そうの舟のうち、ペトロの持ち舟を借りました。
そして、岸から少し漕ぎ出して、舟の上から岸に集まっていた群衆に教え始めました。
話が終わると、イエス様はペトロに向かって、沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をするように言われました。

これに対するペトロの返答を見ると「先生」という言葉から始まっています。
この時点でペトロは、イエス様のことを「先生」と呼んでいます。
この時のイエス様は、すでにユダヤ教の教師として高い評判を得ていたようです。
それでペトロもイエス様のことを尊敬の念を込めて「先生」と呼んだのです。

「主よ」

イエス様はペトロに沖へ漕ぎ出して漁をするように言われましたが、当然、イエス様は漁においては素人でした。
ペトロが「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答えているように、この時すでにガリラヤ湖の漁師たちは、その日の漁を終えていたところでした。
そのため、今から漁に出るということは、とても非常識的なことでした。

おそらくペトロの心には疑いがあったと思いますが、それでも一応「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、沖に出て網を降ろしました。
そうすると、網が破れそうになるほどにおびただしい魚がかかりました。

これまでの知識や経験が全て覆されるような出来事を見て、ペトロはイエス様の足元にひれ伏します。
そして「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。

ここでペトロのイエス様に対する呼び方が一変していることがわかります。
それまでは「先生」と呼んでいたのが、「主よ」という呼び名に変わっています。
これはペトロのイエス様に対する見方が変わったことを意味しています。
「主」と呼び名には、イエス様がメシアであるという信仰が込められています。

ミスター生け捕り

ペトロがメシアであるイエス様を前にして初めに感じたことは、自らの罪深さでした。
これはペトロだけでなく、当時のユダヤ人がメシアをどういう存在として見ていたのかを示す一つの反応だと思います。
メシアというとその完全さと聖さからして、人間には近づきがたい存在であり、そこには超えられない壁のようなものがあったのかもしれません。

しかし、イエス様はペトロや多くのユダヤ人がイメージするようなメシアではありませんでした。
あまりにも聖すぎて近寄りがたいメシアではなく、むしろイエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言って、ペトロのことを招いてくださったのです。

ここで「人間をとる漁師」の「とる」という言葉は「生け捕りにする」という意味があります。
イエス様は人間をとる漁師として、この世に来られたお方です。
イエス様はペトロのことをまさに「生け捕り」にされたのです。
罪深さを感じているペトロをあるがままの存在として、生け捕りにして、ご自身のみもとに招いてくださいました。
イエス様を前にして、私たちは出直す必要はありません。
イエス様は私たちをそのままの姿で生け捕りにして、神の子としての身分を回復してくださるメシアなのです。