牧師ブログ

「イエスの爆弾発言」

22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカによる福音書4:22-30)

イエス殺人未遂事件

イエス様が洗礼を受けて、宣教を始めた初期の頃、地元のナザレでのことです。
ある安息日に会堂に入ったイエス様は、イザヤ書の御言葉を朗読しながら、ご自分がそこで預言されているメシアであることを人々の前に明らかにされました。

これを聞いていた人々は、イエス様の口から出る恵み深い言葉を聞きながら、イエス様のことをほめたたえました。
そして「あのヨセフさんのちのイエスくんが何かすごいこと言ってる!」と良い意味での驚きをもって、イエス様のことを好意的に受け止めていました。

しかし、その後にイエス様が語った言葉によって、人々の態度は一変します。
イエス様は旧約聖書から、預言者エリヤとエリシャの時代に起こったことを語り出しました。

エリヤの時代に3年半もの間、大きな飢饉が起こった時、神様はエリヤに対してシドン地方にあるサレプタという街にいるやもめのところに行くように命じ、その異邦人のやもめを通して、神様はエリヤのことを養いました。
イスラエルにもやもめはたくさんいましたが、神様はあえて異邦人のやもめのもとにエリヤを遣わしたのです。

また、エリシャの時代に、アラムの国からナアマンという軍の司令官が重い皮膚病を癒してもらおうとエリシャを訪れたことがありました。
ナアマンはエリシャから言われた通り、ヨルダン川で7度身を清めると、その病が癒されました。
イスラエルにも重い皮膚病を患っている人はたくさんいましたが、異邦人であるナアマンの他には誰も清くされなかったのです。

この話を聞いた人々は皆憤慨し、総立ち状態になりました。
そして、人々はイエス様を町から追い出して、山の崖まで連れて行き、なんとそこから突き落とそうとしたのです。

爆弾発言

人々ははじめ、イエス様のことを好意的に受け止めていましたが、なぜイエス様の言葉にそれほどまでに激昂し、殺害しようとしたのでしょうか?

イエス様が語った話に共通しているのは、話の中に異邦人が登場することです。
エリヤはイスラエル人ではなく、異邦人のところに遣わされ、エリシャはイスラエル人ではなく異邦人であるナアマンの病を癒されました。
つまり、話の要点は「神様の恵みを受けたのは、神の民であるイスラエルではなく、異邦人だった」ということです。

イスラエル人は昔から自分たちのことを神様から選ばれた神の民であり、唯一、神様の救いの相応しい民族であると考えていました。
自分たち以外の民を異邦人と呼び、イスラエル人は神様に救われるが、異邦人は神様に救われないという民族主義的思想を抱いていました。

そのため、イスラエル人にとってイエス様が会堂で語られたことは、イスラエル人を侮辱する言葉に聞こえたのです。
まさにそれは、爆弾発言でした。

結果的にイエス様は、崖から突き落とされることなく、そこから逃げ去ることができましたが、イエス様が語った言葉は、人々に殺意を駆り立てさせるほどのものでした。

イスラエル人の欠け

なぜイエス様はそのようなことを安息日に、しかも会堂に集まる敬虔なユダヤ教徒に語られたのでしょうか?

その前の場面を含めて、この時イエス様が語ったメッセージは次の通りです。
「主の恵みの年は到来し、今ここに実現しました。しかし、その恵みを受けるのはあなたがたではなく、あなたがたが汚れているとみなし、軽蔑している異邦人なのです。」

イエス様がこのメッセージを通して明らかにされたことは、多くの人々が抱いていた誤ったメシア観と民族意識でした。
メシアというのは、決してイスラエル人だけのものではなく、神様の救いは異邦人にまで及ぶということです。

イスラエル人は、自分たちは神様に救われるべき特別な民族だと、救われて当然だと思っていました。
どうか救ってください、恵みを与えてくださいという心ではなく、救われて当たり前、与えられて当たり前だと思っていたのです。

しかし、神様の恵みが注がれるのは、受けて当然だと思っているところにではありません。
恵みを受ける資格があるかどうか、救いに相応しいかどうかでもありません。

「わたしには神様の憐れみしかありません。神様の恵みでしか救われることはありません。信仰のない私をお助けください。」
このように自覚している人々の上にこそ、神様の恵みは注がれるのです。