場違いな発言
イエス様の周りには、その教えを聞くために、また、病気を癒してもらうために、常に多くの人々が集まっていました。
その一方で、イエス様のことを快く思わない人々も存在しました。
その代表が、当時、ユダヤで宗教的な指導者としての地位にいたファリサイ派や律法学者と言われる律法を重視するグループに属する人々です。
イエス様の噂がユダヤに広まると同時に、彼らはイエス様が聖書をもとに教えていることが律法にかなった正しい教えであるのかを調べにやってきました。
その時、イエス様のもとに中風という病気を患った一人の男性が運ばれてきました。
友人たちはイエス様の周りにできていた人だかりを掻い潜るために、人様の家の屋根を破壊して、天井から病人をイエス様の前に吊り下ろしました。
そこまでして癒しを求めにやってきた彼らの信仰を見て、イエス様はこう言われました。
この発言は、病の癒しを求めてやってきた人に対するものとしては、不自然に思えます。
彼らの願いは、病が癒されることなのです。
それにもかかわらず、なぜイエス様は病人に罪の赦しを宣言したのでしょうか?
病人=罪人?
罪の赦しを宣言するということは、イエス様にとってリスクの高いことでした。
この発言はファリサイ派や律法学者たちにとって、看過できないものでした。
「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
これがファリサイ派や律法学者たちのイエス様に対する最初の評価であり、この時から彼らの監視活動が始まりました。
最終的には、彼らはイエス様のことを神を冒涜した罪によって、十字架にかけて殺してしまいます。
しかし、イエス様はもう一度念を押して言われました。
当時、ユダヤでは病気というのは罪の結果として起こるものだと考えられていました。
つまり、そこは病人=罪人の世界だったのです。
病気は身体的な苦痛をもたらすだけではなく、罪人というレッテルを貼られてしまうため、精神的なダメージも大きかったのです。
中風という病気を患っていた男にとって、この罪の赦しの宣言はどのように響いていたでしょうか?
赦された者として…
イエス様は、神様の権威によって病人に罪の赦しを宣言し、彼を立ち上がらせました。
すっかり病が癒された彼は、神様を賛美しながら家に帰って行きました。
これを見ていた多くの人々も、イエス様が単に病気を癒してくれる者ではないことを知りました。
「今日、驚くべきことを見た」と言って、神様を賛美し始めたのです。
この場にいた人々は罪の赦しを宣言し、病人を癒したイエス様を見ながら、そこに神様を見たのです。
神様の力を感じたのです。
イエス様は今、私たちに対しても「あなたの罪は赦された」と宣言しておられます。
この言葉を聞き、ある者は癒され、自由にされました。
しかし、ある者は殺意にかられ、神に敵対する者として歩んで行きました。
私たちは今、この言葉をどのように聞き、受け止めるでしょうか?