牧師ブログ

「ミックスベジタブルと日本」

▶︎ 形骸化した信仰
クリスチャンとして生きることは、日曜日に教会に行き、御言葉を聞き、祈りを捧げ、献金を捧げるというライフスタイルのことではない。

ミカという男の家庭では、神に祈りが捧げられ、銀が捧げられ、家の中に神殿が立てられ、祭司が立てられていた。
外見だけ見れば、立派な信仰を持った家に見えたかもしれないが、捧げられた銀は偶像を造るために使われ、立てられた祭司は律法を無視したものであり、神殿ではテラフィムという偶像が拝まれていた。

そこでは信仰の形骸化が起こっていたのであり、ミカの家で行われていたことは、信仰という仮面を被ったおままごとに過ぎなかった。

信仰というのは、「信仰的な行い(ライフスタイル)」のことではなく「信仰による行い」によって表される。
目に見える部分よりも、行いとして表に出てくるまでの動機や過程が大切なのである。
だから、人の信仰は、究極的には神様にしか判別できないことであり、誰かの行いを見てその人を裁くことは、とても愚かなことである。

▶︎ 信仰のミックスベジタブル化
日本では、一つの家の中に神棚が置いてあり、かつ仏壇がある家庭をよく見る。
もちろん、ほとんどの場合、宗教として神道や仏教を信仰しているわけではない。

日本人というと子供の頃は、七五三やひな祭りという神道の儀式でお祝いするが、結婚する時はキリスト教式で行うことが多く、最後、死ぬ時には仏教式でお葬式を行う。
年末になればクリスマスをお祝いするが、年が明けて正月になると、神社やお寺に初詣に出かける。

よく言えば、いろんなものを広く受け入れる寛容さがあると言えるが、悪く言えば、宗教的な信念がない。
そう、日本の宗教の特徴は、ミックスベジタブルなのだ。

ミックスベジタブルは「人参」「とうもろこし」「グリーンピース」、これらの食材が混ざり合って、絶妙な調和をなしている。
ただし、残念ながらどんな場合でも、主役になることはない。
ピラフやサラダ、料理の付け合わせなど、脇役として主役を引き立てるのがミックスベジタルに求められていることだ。

日本における神道(神社)、お寺(仏教)、教会(キリスト教)、これらも儀式的な形だけが残り、中身が抜け落ちている。
ミックスベジタブルと化した宗教は、信仰の仮面を被って、主役を引き立てる脇役に追いやられているのが現状だ。

それでは、なぜ宗教の形だけが残って、その本質が失われてしまったのか?
今、日本において主役の座に座っているものは何なのか?

▶︎ 本当の主役は誰か?
「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」という言葉が表しているように、自分の目に正しいと思うことを追求するならば、信仰は形骸化していく。
その場合、本当の主役は信仰の対象ではなく、「自分の目」である。

自分の目に正しいと思うことを求めると、自分に都合の良いことだけが残っていく。
日本人にとって大切なことは、神道でも仏教でキリスト教でもなく、どれでもいいからとにかく自分の必要を満たしてくれることなのだ。

だから、結婚式やイースター、クリスマスといった楽しみ担当のキリスト教も、お正月や子供の儀式を担当する神道も、お葬式を担当する仏教ともほどよく付き合っていけばいい。
自分にとって何が必要かを中心に考えるのなら、何か一つだけに絞る理由はなく、いろんな神や仏が一緒になって、自分の生活に馴染んで、盛り上げてくれればそれでいい。
自分の目に正しいことを追い求めるならば、自分にとって必要のないと思われる部分は自然と削り取られていき、信仰の形だけが残ることになる。

それでは、聖書は本当の主役は誰だと言っているか?
それは、主なる神様である。
「イスラエルには王がなく」という言葉は、もっと正確に言うと「イスラエルは本当の王が誰であるかわからなくなり」ということである。

自分の目を王にし、自分が王になるならば、神という存在は必要なくなる。
しかし、ミックスベジタブルに失礼を覚悟で言わせていただこう。
本当にミックスベジタブルだけで満足できますか?

王なる神を求め、その支配を受け入れ、その方だけで満足することが、私たちの必要を本当に満たす生き方である。