現実離れした教え?
聖書は「敵を愛しなさい」と教えています。
この教えは、当時のユダヤでは他に例を見ない教えでした。
例えば、律法を最重要視するファリサイ派というグループは、自分たちの組員だけを愛するように教えていましたし、また他に、世俗の社会から離れて、荒野や洞窟で暮らしていたエッセネ派というグループは、世に倣って自由奔放に生きる人々のことを憎むように教えていました。
イエス様は単に「愛しなさい」ではなく「敵を愛しなさい」と言われましたが、この言葉に対して、大きく二つの反応があるかと思います。
一つは、この教えを肯定的に捉え、素晴らしい教えとして受け入れる態度です。
もう一つは、否定的に捉えて、あまりにも現実離れしていると拒絶する態度です。
どちらにしても、簡単に従える教えではないと感じる部分は共通しているところだと思いますが、なぜイエス様はそのようなことを教えたのでしょうか?
悪に打ち勝ちなさい
ここでイエス様が言っている「敵」というのは、悪意をもって危害を加えてくる相手のことです。
憎む者、悪口を言う者、侮辱する者というのは、主に言葉で攻撃してくる人のことで、頬を打つ者は物理的な危害を加えてくる人、そして、上着を奪い取るというのは、大切な物を奪って危害を与えてくる人です。
これらのことによって、物理的な痛みが生じるだけではなく、精神的な痛みや屈辱感を伴うものです。
このように、悪意をもって危害を加えてくる人(悪人)に対して、イエス様はどのように言っておられるでしょうか?
イエス様はそういう人たちに対して「親切にしなさい」「祈りなさい」「与えなさい」と教えておられます。
つまり、やり返さないを通り越して、善をなすように言っておられるのです。
「敵を愛しなさい」という教えは、悪人に手向かってはならないということで留まらず、悪人に善をもって接しなさいということです。
もし悪人に勝つとすれば、報復すればよいです。
その最終形態が殺すことですが、どんな形であれ悪人を痛めつけることができれば、それは悪人に勝利したことになります。
しかし、敵を愛しなさいという教えから出てくるのは「悪人に勝利しなさい」ということではなく、「悪に勝利しなさい」ということです。
すべての人のための十字架
ここまで聞いて、確かに聖書は敵を愛しなさいと教えていることはわかりましたが、果たして実際にそんなことが可能なのかという問題が生じてきます。
悪を見逃すことはできたとしても、悪人に善を施すことなどできるのでしょうか?
これを考える時にまず思うべきことは、私たちができるできないの前に、神様が私たちに対してそのようにしてくださったという事実です。
35節の終わりに「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」と書かれています。
ここで「いと高き方」というのは神様のことですが、神様は恩を知らない者や悪人に対して、情け深いお方です。
情け深い神様は、悪人に対して圧倒的な力を行使して、その人を断罪し、裁くことはしませんでした。
イエス様は悪に打ち勝つために片っ端から悪人をとっ捕まえて、悪を成敗する警察官としてこの世に来られたのではありません。
そうではなく、人々のすべての罪を背負って、十字架を背負われたのです。
イエス様がかけられた十字架こそ、私たちを愛していることの一番のしるしなのです。