暗殺によって実現した神の預言
これは、アラムの国の物語です。
ある時、アラムの王ベン・ハダドが病気であった時、イスラエルからエリシャという預言者がアラムにやって来ました。
それを聞いた王は、自分の病気が治るかどうか、主の御旨を尋ねるため、部下のハザエルをエリシャのもとに行くようにと命じました。
ハザエルがエリシャから聞いた答えは「あなたは必ず治る。しかし、彼は必ず死ぬ。」というものでした。
この言葉の意味は、病気によって死ぬことはないけど、別の形で死が訪れるということです。
また、この時エリシャが、神様から示されたこととして、ハザエルに伝えたことがあります。
それは「あなたがアラムの王になる」ということでした。
その後、王のもとに戻ったハザエルは、エリシャから聞いた言葉の一部しか伝えず、しかもその翌日、ハザエルは王を暗殺したのです。
この一連の出来事の中で、神様の預言が二つ、成し遂げられています。
一つは、ベン・ハダドは死ぬということであり、もう一つは、ハザエルが王になるということです。
この二つの預言が成し遂げられることになったのは、「暗殺」によります。
残虐で無慈悲な暗殺という行為によって、神様の預言は実現したのです。
罪と死のただ中にある救い
そうだとすれば、神様は暗殺を計画し、実行に移したということになるのでしょうか?
そうではありません。
神様が言われたのは、あくまでも、ベン・ハダドは死に、ハザエルが王になるということであり、それが暗殺によって実現することは、望んでいなかったはずです。
そこにあったのは、暗殺という暴力的な方法によって物事を動かしてしまった人間の罪です。
実は、同じように暴力的な方法によって、奇しくも神様の預言が成し遂げられた出来事が他にもあります。
その中でも、一番大きな出来事と言えるのが、キリストの十字架です。
裁判を司っていたローマ総督ピラトは、キリストには罪を見いだせないと言ったにもかかわらず、ユダヤの群衆は、キリストを十字架につけるように要求しました。
暗殺に近い形でキリストは死ぬことになるのだが、キリストが十字架上で息を引き取る時、最後に語った言葉は「成し遂げられた」でした。
罪のない神の子を十字架につけるという人間の残虐な罪によって、神様の救いが成し遂げられた瞬間でした。
十字架には人間の罪とその結果訪れた死という災いと同時に、神の救いの力が表されています。
このことから、神様は人間の罪深さをも用いて、ご自身の救いの計画を成し遂げられるお方であることがわかります。
人間が犯した罪や過ちの責任をすべて自分たちで引き受けなければならないとしたら、そこには絶望しかありません。
しかし、そこに神様が関わっておられるならば、どのようなことが起こっても「もう終わり」ではなく、そこから神様の救いが始まっていくのです。
罪と死のただ中にある涙
この場面で、興味深いところは、エリシャがハザエルを見つめながら、涙をしたところです。
エリシャは、涙の理由について「わたしはあなたがイスラエルの人々に災いをもたらすことを知っているからです」と言っています。
その災いというのは、砦には火が放たれ、若者は剣で殺され、幼子は打ちつけられ、妊婦は切り裂かれるというように、多くの人々の命に関わるものでした。
イスラエルとアラムというのは、すぐ隣り合っている国同士で、敵対関係にある期間が長くありました。
エリシャは、のちにハザエルがアラムの王となり、敵対するイスラエルに災いをもたらすことを知っていました。
それで、涙を流したのです。
エリシャは、ハザエルを見ながら、イスラエルが受ける災いを悲しんでいたのであり、それはつまり、神に立ち返ろうとしないイスラエルの罪を悲しんでいたということです。
エリシャの涙は、罪と死の力に翻弄されるイスラエルとこの世界のために流された涙でした。
この涙は、まさに神様の涙でもあります。
神様は罪と死の力に支配されている人間の悲惨な現実を見ながら、涙されるお方です。
イエスが死んだラザロのために流した涙も、まさにそういう涙でした。
今のパンデミックの世界を見ながら、この世界のために、神様は涙を流しておられるでしょう。
すぐに解決できない問題にぶち当たる時、私たちができることは、神様にその現状を訴えて、神様と共に涙を流すことではないでしょうか。