牧師ブログ

「私たちはどうしたらよいのですか」

36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒言行録2:36-42)

教会の始まり

「教会」は、この社会において他に例を見ない、とても独特な組織である。
このことは、教会がどうやって始まったのか、その「始まり方」によくあらわれている。

会社や学校など、社会のあらゆる組織というのは、社会のある事柄に関心や情熱を持った人が、理念を掲げてスタートする。
しかし、教会というのは、そのように人間の情熱や社会への関心によって始まったわけではない。

教会は、2000年前にユダヤにおいて初めて誕生したが、教会が始まったきっかけは、天からこの地に聖霊が注がれたことによる。
それはつまり、教会の始まりには、神様が大きく関わっていたことを意味する。
人間ではなく、神様によって始められたのが教会である。

そうだとすれば、教会が教会であるために求められることは何であろうか?
それは、教会を始められたお方である三位一体の神様を礼拝すること、この一点に尽きる。
どの時代、どの地域、どういう形態かによらず、そこで三位一体の神様が礼拝されていれば、そこが教会となるのである。

聖書はまさに、三位一体の神様の働きによって教会がスタートしたことを伝えている。

ペトロが伝えようとしたこと

初めの教会というのは、使徒ペトロを中心として120人ほどの人々が集まっていたところに、さらに3,000人ほどの人々が仲間として加わったことによって始まった。
教会は、3,000人超の大所帯で始まったのである。

そのきっかけとなったのは、五旬祭というユダヤで行われる大きな祭りの最中に、そこに集まっていた人々に向けて、ペトロが語った言葉にある。
そこには、五旬祭の礼拝を捧げるために、世界各地から大勢のユダヤ人が集まっていた。
おそらく、ほとんどが、50日前の過越祭の時から引き続き、エルサレムに滞在していた人たちであろう。
つまり、彼らは過越祭の中で、キリストが十字架につけられて殺される場に居合わせた人々である。

ペトロが語った一連のメッセージの結論は、以下のことである。

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(使徒言行録2:36)

ここでペトロが伝えようとしたことは「イエスとは、誰なのか」ということである。
それはすなわち「神はイエスを主とされた」「イエスは主であり、メシアである」ということである。

「主」というのはすべての権威を持っていて、すべてを司っている立場にある存在のことを意味する言葉で、もともとは当時、世界進出を進めていたローマの皇帝に対して使われていた言葉である。
また、「メシア」というのは、当時のユダヤで「救済者」という意味で使われていて、ユダヤ人はローマの支配から救ってくれる救済者、メシアを待ち望んでいたのである。

そんな中で、ペトロは、本当の主はローマ皇帝ではなくイエスである、この方こそあなたたちが待ち望んでいたメシアであると訴えたのである。

ざわつくユダヤ人たち

ユダヤ人たちは、このペトロの言葉をどのように聞いていたのか?
37節を見ると「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞き返した。

彼らは、つい2ヶ月ほど前にイエスを十字架につけて殺してしまった張本人である。
多くの人々の脳裏には、鞭打たれズタボロになったイエスの姿、苦しみ悶えながら十字架で死んでいったイエスの姿が鮮明に焼き付いていたことだろう。
「わたしたちはどうしたらよいのですか」という言葉には、救い主であるイエスを殺してしまったことへの焦りや戸惑いみたいなものが表されている。

この時、人々の心の中で何が起こっていたのか?
おそらく、彼らの中に「罪の自覚」みたいなものが生じていたのだろう。

ユダヤ人にとってイエスを十字架につけて殺すということは、決して悪意をもってやったことではなかった。
むしろ「神を冒涜し、ユダヤを混乱させる輩を抹殺する」という聖なる大義名分をもって行われたことだったのである。

彼らは、過越祭や五旬祭というユダヤの伝統的な祭りを守るために、エルサレムに集まっていた「信心深いユダヤ人」である。
神を信じ、ユダヤを愛し、悪に対する正義感に溢れていた人々である。
イエスの殺害というのは、決して極悪非道な犯罪者集団によって行われたのではなく、敬虔で信仰深い人々によって行われたのである。

これが示していることは、人が犯す罪というのは、いつも人の認識のうちにあるのではないということである。
罪というのは、時に熱心さや真面目さ、正義の中に隠れているのである。

人間を上回ってくる神

ただ、ここで注目すべき点は、この犯罪者集団が、最初の教会となっていったということである。
このように教会が成り立っていったことは何を意味するのか?
それは、人間の罪深さよりも、神の恵み深さがもっと深いということである。

36節の言葉を見てみると、ペトロは「人間がしたこと(イエスを殺したという罪)」と「神様がしたこと(殺されたイエスを主とした)」という二つのことを語っている。
本来、人々が犯した過ちというのは、もう取り返しのつかないことである。
どんなに反省したとしても、いくら悔やんだとしても、過去に犯した罪の事実が消えることはない。
そうだとすれば、律法によって殺人の罪に定められ、刑罰を受けなければならない。

こういう取り返しのつかないような罪の中で、神様は、殺されたイエスを主とし、メシアとなさった。
神様はイエスを死から復活させ、さらに天にあげ、天から聖霊を注がれた。

もし、人間がやることがすべてであったとしたら、そこにもはや希望はない。
しかし、神様がなさることは、人間の罪を上回ってくる。
ここに、希望がある。

罪深いこの世界において、そこに神様が生きて共に働いておられるからこそ、どんな事態が起こったとしても、前を向くチャンスが与えられているのである。