バアル・ゼブブを求めたアハズヤ王
列王記上と下をつなぐ部分に出てくるのが、アハズヤという王です。
このアハズヤ王は、北イスラエル王国史上、最悪の王と言われるアハブの息子で、父親の跡をついで王となりました。
アハズヤとはどのような王だったのか、列王記上22章の最後のところを見てみましょう。
アハズヤが王位にあったのは、わずか2年という短い間でしたが、この期間、アハズヤは父と母にならい、バアルという偶像に仕えました。
アハズヤがしたことは、神の怒りを招くことでした。
ただ、アハズヤがバアルを求めるだけでなく、別の偶像にも手を出していました。
それが、バアル・ゼブブという偶像の神です。
そのきっかけとなったのは、アハズヤが病気になったことにありました。
ある時、アハズヤは屋上の部屋の欄干(柵)から地上に転落したことにより、病気にかかってしまいました。
それでアハズヤは、ペリシテ地方のエクロンという街で崇められていたバアル・ゼブブという神に使者を遣わして、自分の病気が治るかどうかを確かめようとしたのです。
もともとアハズヤは、両親の信仰を受け継いで、バアルという偶像に仕えていましたが、なぜこの時に、バアル・ゼブブという全く別の神を求めたのでしょうか?
日本版バアル・ゼブブ
アハズヤが求めたバアル・ゼブブという神には、ハエの主という意味があります。
その当時、ハエによって疫病が運ばれて、災いが起こっていると考えられていたため、あらゆる災いをもたらす神として、バアル・ゼブブが生まれたのです。
実は、日本にもこのバアル・ゼブブと似たような存在がいます。
それが「鬼」です。
日本において、鬼というのは、古く昔から歴史の中で語り継がれてきた存在です。
ツノが生えた頭に釣り上がった目、牙が生えた口という風貌で金棒を振り回す様子は、人々を恐怖に陥れます。
その一方で、「節分」という伝統行事があったり、「鬼ごっこ」という子供の遊びにもなっています。
最近では、鬼をテーマにしたアニメ「鬼滅の刃」が大ヒットしたように、鬼というのは比較的に馴染み深い存在でもあります。
以前、NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組の中で鬼について取り上げられていました。
「鬼とは何?」という問いに対するチコちゃんの答えは「目に見えない何か」というものでした。
日本では古くから「目に見えないもの」を「隠(おん)」と表現する文化があり、今から1000年以上前、科学的な知識が乏しい時代において、雷や洪水といった災害や疫病は、すべてこの「隠」の仕業であると考えられていました。
また、「鬼(き)」という漢字には、もともと死者の魂とか霊魂という意味があって、こちらも、目に見えないものを表す言葉でした。
この目に見えない「隠」と「鬼」が結びついて、「鬼(おに)」が誕生しました。
鎌倉時代に入ると、本来、目に見えない鬼に形が与えられて、鬼の姿を描いた絵が多く見られるようになりました。
目に見えない疫病という災いの原因として、この鬼があてがわれたそうです。
つまり、科学的には理解できない疫病や災害など、それらを起こす得体の知れないものについて、人は「これは鬼の仕業だ」ということにして、災いを理解し、それを乗り越えようとしたのです。
人が災いという不幸を受け止めて、それに対処するために生み出したものが、鬼であり、バアル・ゼブブです。
「合理的な説明」の功罪
不慮の事故や病気、災害など、何か予期せぬことが起こった時、何を考えるでしょうか?
おそらく、多くの場合「なぜ、こんなことになってしまったのか?」とその原因を追求するのではないでしょうか。
なぜなら、理由も原因も分からずに、理不尽に不幸な出来事が己の身に降りかかることは、とても我慢ならないことだからです。
現代は、説明ができないということをとても嫌う時代です。
最近の新型コロナウイルスについても、宗教的な世界では、神がそうしたとか悪霊がそうしたとか言われたりするし、科学的な見地からは、動物に起因するのか、ウイルス研究所から漏れたものなのか、今なお調査が続いています。
いずれにしても、やっぱり私たちは、災いの原因を知りたいし、説明が欲しいのです。
はっきりとした原因がわかれば、まだ今のような状況になったことを論理的に理解できるし、現実を受け入れようとすることができます。
アハズヤにしても、もし病気になったことがバアル・ゼブブによるものだと考えれば、病気の原因は特定されるし、たとえ病気が治らなかったとしても、それもすべてバアル・ゼブブのせいということにできるのです。
これが、アハズヤがバアル・ゼブブを求めた要因でしょう。
アハズヤがしたことは、もちろん一時的な気休めにはなるかもしれません。
しかし、本当に人に命を与え、その人を救うのは「合理的な説明」ではありません。
この日本も、地震や豪雨などの自然災害が多く発生する地域ですが、被災した人が求めているのは決してそういう説明ではないでしょう。
そうやって説明は、むしろ、苦しみの中にある人をコーナーに追い詰め、もっと惨めで辛い気持ちにさせてしまうのではないでしょうか。
「わたしがいるではないか」
バアル・ゼブブを求めるアハズヤを見ながら、神様は何を思っておられたでしょうか。
当然、偶像を求め続けるアハズヤの態度は、神様の怒りを招くものであり、この話の結末は、アハズヤに死の裁きが下されることによって終わります。
しかし、神様の怒りというのは、決して、すぐに死という裁きをもたらすものではありません。
それを表すように、神様は御使いを通して、エリヤに神の言葉を告げられました。
神様はエリヤに対して、アハズヤがバアル・ゼブブのもとに遣わした使者に会うように言われました。
そして「イスラエルには神がいないとでも言うのか」「あなたは必ず死ぬ」と言うことを伝えるように、エリヤに命じられました。
実際にその後、エリヤはアハズヤの使者に会い、アハズヤは使者を通して、神様の言葉を聞くことになりました。
神様が言われた「あなたは必ず死ぬ」というのは、相当に強烈な言葉です。
「あなたは必ず死ぬ」というのは死を宣告する言葉であり、そうだとすれば、アハズヤには、もう生きる道は残されていなかったということになるのでしょうか?
そうではありません。
この場面で、神様が御使いを用い、エリヤを用いているという点を見落としてはなりません。
もし、神様がもうアハズヤのことを赦す気がなかったとしたら、わざわざ御使いを遣わしたり、一度表舞台から退いたエリヤを通して、語ったりする必要はなく、神様自ら天から火を注ぐなりして、直接、死という裁きを下せばよかったはずです。
しかし、神様はそのようには、行動されませんでした。
それは、神様がアハズヤを「悔い改めの余地なし」と断罪しようとしたのではなく、なんとか神様の方を向いて欲しいと願っておられたからではないでしょうか。
神様が言われた「イスラエルには神がいないとでも言うのか」という言葉は、裏を返せば「イスラエルには、神であるわたしがいるではないか」ということです。
おそらく、神様が一番に伝えたかったメッセージはこれでしょう。
「ここにわたしがいるではないか」
「あなたが頼るべきはわたしではないか」
この神様の前で、私たちはいつでも真の神様に立ち返る自由があるのです。