牧師ブログ

「礼拝は捧げて当たり前か問題」

多くのクリスチャンにとって、毎週日曜日に礼拝を捧げることは、普段、学校に行ったり、職場に行ったりすることと同じように、わざわざスケジュール帳に書き込むまでもなく、当たり前のこととして行っている。

ただ、礼拝を捧げる時に持つべき感覚は、本当に「当たり前」でよいのだろうか?

礼拝者ダビデ

ダビデという名前を聞いて、多くの人が思い浮かべる関連ワードは、おそらく「王」だろう。
ただ、私が思うに、ダビデに最もふさわしい肩書きは「王」であること以上に「礼拝者」ではなかろうか。
ダビデ王は、礼拝者ダビデ王である。

王となったダビデは、王国の基盤を築くために、いくつかの事業を行った。
初めに行ったことは、王国の都を定めることだった。
ダビデは、イスラエルとユダの境目にあったエルサレムという町を、新たに都に定めた。

そして、次に取り掛かったことは、そのエルサレムに神の箱を運び入れることだった。
神の箱というのは、モーセの時代に神様の命令によって作られた幕屋に置く祭具の一つである。
幕屋の中心に神の箱が置かれたことから、神の箱は神が共にいること、神がイスラエルの中心にいることを表すしるしとなった。

イスラエルが敵国ペリシテと戦うことになった時に、イスラエルのリーダーたちは、神の箱があれば、神が敵の手から救ってくれると考えて、戦場に神の箱を持ち出した。
しかし、いざ戦いが始まると、イスラエルはペリシテ軍に打ち負かされ、神の箱も奪われてしまった。

神の箱というのは、決してパワーストーンやお守りのようなご利益をもたらす箱ではない。
神の箱自体に何か不思議な力が宿っているわけではなく、イスラエルの信仰の中心は神が共におられることだった。

ダビデが王になって早い段階で、エルサレムに神の箱を運び入れる事業を行ったことは、ダビデの関心がどこに向けられていたのかをよく表している。
もしダビデの関心が、イスラエルを強い国にすること、豊かな国にすることであれば、軍隊を増強したり、貿易を盛んに行ったりすることをまず考えたと思う。
しかし、ダビデの関心はそういうところではなく、神が共にいること、イスラエル王国が神と共にいる国になることを何よりも切実に求めたのである。

われわれの関心事

日常生活の中で、私たちの興味や関心はいつもどこに向けられているだろうか?

牧師が陥りやすい罠の一つは、神御自身ではなく、神のために働くことにもっと関心を持つことである。
「神のために命をかける」と言えば、聞こえはよいかもしれないが、神以上に何かを求めるのであれば、それは神が最も忌み嫌う偶像となる。

私たちの関心がどこに向けられているかを知るためには、わざわざ生活の一部始終を事細かに見るまでもなく、対極にある二つの時間をどのように過ごしているかを見れば、ある程度わかってくる。

一つは、礼拝の時間をどのように迎えているか、礼拝への姿勢である。
「礼拝は日曜に限ったものではなく、人生そのものだ」というのも一理あるが、ある時間、ある場所で一緒に集まって捧げる礼拝は、教会があらゆる器官から成り立つキリストの体であるという観点から、特に重要なものである。

また、もう一つは、特に何にも縛られない自由な時間に、自分が何を考えているのか、何をやっているのかを見ることである。
一日が終わり、夜ご飯を食べ終え、お風呂も入った後の時間や、特に一日何も予定がない休みの日など、何でもできる自由な時間に何をやっているかを考えると、自分が本当に関心があるものが浮かび上がってくる。

趣味や娯楽の時間を完全シャットアウトする必要はないが、私たちが何に関心を持っているのかという「私の心」は、神様にとっても大きな関心事である。

キリストは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神様を愛すること」が、第一の重要な掟であると語った。
これが意味することは、神様は私たちの関心が、他の何よりも神様に向けられていることを願っているということである。

毎週当たり前のように礼拝を捧げていることが信仰を表すのではない。
本当に自分が関心を向けているものは何なのか、自分自身の姿を顧みてみる必要がある。

当たり前か問題

礼拝を捧げることは当たり前か?
この問いに対する私なりの答えは「当たり前かつ当たり前じゃない」というなんともずるいものになってしまう。

礼拝というのは、神様の愛や恵みに対する私たちの応答なので、神様がどれだけ私を愛してくれているか、私のために何を捧げてくださったのかを考えれば、私たちができることとして、礼拝を捧げることは当たり前である。
ただ、私たちが持つべきもう一つの感覚は、礼拝を捧げることができるのは決して当たり前のことではないというものである。

ある時、私の娘が食パンを食べていると、突然、パンをのせたお皿に顔をうずめ出した。
そして、笑いながらそのままモグモグと、顔をうずめながらパンを食べ始めたのである。
その姿を見ながら「いや、どんな食べ方?」と思っていたが、その後に私は感じた。
「この子には、それだけパン一切れから与えられる大きな喜びがあるのだ」と。

食べることと同じように、多くのクリスチャンは当たり前のように礼拝を捧げている。
ただ、そこに喜びや感動があるだろうか?
人生の中で礼拝がただ当たり前のものになると、神様が共にいることも、神様の愛や恵みが注がれていることも、いつしか自分の中で当たり前のことになっていく。
礼拝は当たり前、神様が共にいて当たり前、信仰があって当たり前、命があって当たり前、と。

ダビデが神の箱をエルサレムに運び入れた時、ダビデはそれを当たり前のように思っていたわけでも、行ったわけでもない。
ダビデは神の箱を運びながら、力の限り踊り、喜びの叫びをあげ、楽器を吹き鳴らした。
そこには、喜びと感動があふれていた。

主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王。(詩篇95:1-3)

喜びの歌と叫びをもって御前に進む時、私たちが捧げる礼拝は生きたいけにえとして神様に捧げられるのである。