▶︎ 怒り、ねたみ、裁く神
神様は、神様を捨てて、偶像に仕えたイスラエルの民に対し、怒りに燃えて、彼らを敵の手に任せるという裁きをくだされた。
なぜなら、神様は「ねたむ神」だからである。
「怒り」とか「ねたみ」という言葉は、一見、神様に相応しくないように思える。
愛の神様であれば、怒らず、じっと忍耐し、待ち続けるべきだと。
しかし、神様が怒り、ねたむのは、神様が短気だからでも、性格がねじ曲がっているからでもない
神様が、愛の方だからである。
もし、愛し合う2人の男女において、一方が他方を裏切って、別の人をもっと愛するようになったとしたらどうであろう。
その時に、裏切られた人が相手に対して怒りも、ねたみも感じないとしたら、それは相手への愛がすでに冷めているからである。
どうでもいい相手に対しては、怒りもねたみも生まれないが、本当に愛する人であれば、怒り、ねたむ心が生まれるのは自然な感情である。
怒りやねたみが問題となるのは、それが「罪」と結びつく時である。
怒りやねたみによって相手を傷付けたり、ストーキング行為などによって精神的・物理的ダメージを与えるとしたらそれは問題だが、真実な愛から生まれる神様の怒りやねたみは、人を救いへと導くのである。
▶︎ 神様に助けを求めるうめき
神様は敵の手に渡したイスラエルの民を、今度は救うために動かれた。
そのために士師というリーダーを新しく立てて、敵国からイスラエルを守るようにされた。
士師が生きている間は、イスラエルの平和は守られたのである。
ここで一つ疑問に思うことは、神様がイスラエルを敵の手に任せて、その後に敵の手からイスラエルを救い出されるのも神様だとしたら、神様は何のためにイスラエルに裁きを与えたのか?
どうせ神様が、敵の手からイスラエルを救ってくださるなら、初めからイスラエルを敵の手に渡す必要はなかったのではないか?
これは神様の自作自演なのか?
この疑問を考えるためには、神様が士師を立てたタイミングについて知っておく必要がある。
神様がイスラエルを救うために士師を立てたのは、圧迫されて苦しむイスラエルのうめきを聞いて哀れに思ったからである。
このうめきというのは、神様に助けを求めるうめきであった。
つまり、神様が士師を立てたのは、イスラエルが神様を求めた時である。
イスラエルが偶像から神様に目を向けて、神様に助けを求めてうめいた時に、神様は動かれたのである。
神様の救いというのは、単に霊的なものではなく、あらゆる負の力に対する勝利である。
食べ物が十分になくて生きていけないとしたら、貧困から救われるべきだし、不当な差別を受けているのであれば、不公平から救われるべきである。
神様の救いは、現実的な悪や苦しみからの救いである。
だからこそ、私たちは日常生活のあらゆる局面で、神様に救いを求めることができる。
私たちが神様を呼び求めるのであれば、神様はうめく私たちを憐んで救ってくださるお方である。
▶︎ 自由の中で試される
神様がイスラエルを救うために立てた士師は、敵の手からイスラエルを救うことはできたが、偶像に仕える問題には太刀打ちできなかった。
むしろ、イスラエルの霊的な情勢はますます悪くなるばかりであった。
そんなイスラエルに対して、やはり神様は怒りに燃えて、裁きをくだされた。
今回の裁きは、イスラエルの中にカナンの人々を残すというものであった。
これは、神様がイスラエルの中に、あえて偶像の影響力を残しておいたことを意味する。
神様は異教の文化を持つカナンの人々を自ら追い払い、偶像を徹底的に破壊して、イスラエルの身を守ってあげることもできたが、そうはしなかった。
神様は、イスラエルが自らの意思で偶像を捨てて、神様を求めるようになるのを待つ道を選択したのである。
イスラエルが偶像を捨てるためには、彼らの中に偶像を残しておかなければならない。
愛というのは、自由の中に置かれて、初めて生まれるものであり、強制されては、駄目になる。
神様は、イスラエルが神様と偶像、どちらを選ぶこともできる自由の中で、偶像を捨てて、神様を選ぶことを望まれた。
神様は、今この世に、サタンが存在することを許しておられる。
神様はいま私たちに、サタンに仕えることも神様に仕えることもできる自由を与えている。
なぜ神様は、人間を神様から引き離すような悪が存在することを許しているのか?
それは、私たちが罪から離れ、神様を選ぶことを、神様が待っておられるからである。
この選択を経ることで、私たちは本当の意味で神様を愛することができる。
愛の神様は今も怒り、ねたみながら、すべての人々のことを待っておられる。