【愛情と義務感】
〈契約が生む義務感〉
前回、夫婦関係とは契約関係だと言いました。
この契約によって結ばれた関係は、決してきれいごとだけでは成り立ちません。
私たちはどんなに好きな相手であっても、常に相手のことを100%受け入れられるのではありません。
当然「はぁっ?」と思う時、「んあっ?」と思う時があります。
どうでもいいと思える関係なら、素直にそういう感情に従っておけばよいかもしれませんが、夫婦はそういうわけにはいきません。
契約という拘束力のもとにある関係は、わたしたちが嫌う「義務感」を生み出すのです。
だとすれば、夫婦の間で義務感を感じることがあれば、それは不健全な関係なのでしょうか?
例えば、職場や教会に行く時に「なんか今日は面倒くさいな」と思ったことが誰しもあるはずです。
そういう不純な心がある状態で出かけることは罪であり、そういう心が少しでも生じたのなら、行かない方がいいのでしょうか?
夫婦の間でイヤイヤ何かをやることがあるとしたら、それは愛ではないのでしょうか?
いつも義務感しか感じられないとすれば、純粋に愛情の問題でしょうが、契約関係が生み出す義務感は、一概にダメなものとは言えません。
〈義務感が育む愛〉
契約の愛とは、相手のことをよく知っているにもかかわらず、それでもありのままを受け入れて、愛することです。
恋愛中に感じていた「ドキドキする」という感情に左右されずに、相手のために何かをすることが契約で結ばれた夫婦の愛です。
ということは、契約関係にある二人は、自分と価値観が合わないことや相手の嫌な部分が見えることがあっても、義務感を感じながらも、相手のために何かをしなければならないことがあります。
私たちがいつも、自分の感情だけに従って「嫌ならやらない」「気分が乗らないならやらない」という自分無双モードで生きるとしたら、そこには義務感が生まれることはなくとも、相手との関係はどんどんドライなものになっていきます。
相手に何も期待しなくなり、ついには別れるという方向に進んでいきます。
常に義務感を避け続けるのなら、二人の関係が成熟することは絶対にありえません。
愛のある成熟した関係を育むためには、義務感というものを避けて通ることはできないのです。
イヤイヤ何かをやることは、愛ではないように見えますが、実は表面からずっと奥深くにある愛なのです。
聖書の中では、旧約聖書のホセア書の中に、この契約の愛が表されています。
神様はホセアという預言者に対して、不倫した妻のゴメルを愛するように命じます。
ホセアは妻に対して激しい怒りを感じながらも、不倫相手のところにいたゴメルを自分のところに取り戻します。
この時ホセアの心には、複雑な感情が渦巻いていたと思いますが、それでも相手を赦し、受け入れたのです。
これは神様とイスラエルの関係をモチーフにしているので、かなり極端なように思えますが、ここに、神様が人を諦めることなく、忍耐し続けた愛があります。
ホセアは自分の素直な感情に従うのではなく、相手を愛することを選んだのです。
契約関係にある夫婦関係は、好きという純粋な感情だけでは成り立ちません。
「義務感」を感じた時、相手と距離を取るのではなく、相手を愛する選択を重ねていくことで、二人の関係はより練り上げられたものへと成熟していくのです。
契約が生む義務感は、夫婦の愛を成熟させていくスペシャルスパイスだ!