人種差別と誹謗中傷という問題について、どちらも存在に対する誤った見方から始まったと言いましたが、それとともに、もう一つ見逃してはならないことがあります。
存在に対する見方というのは、個人的な見方に過ぎませんが、個人の偏見が、すぐさま差別という問題を生み出すのではありません。
差別というのは、多数派と少数派、強者と弱者の関係から生まれる問題です。
差別は多数派(強者)が少数派(弱者)に対する権力を持ち、相手を抑圧するところから始まります。
すると、この両者の関係性と立ち位置が、社会の中で制度的に定着していき、社会問題へと発展していくのです。
そのため、差別問題は、社会的な構造に下支えされている問題だと言えます。
具体的な例で説明すると、人種差別の場合、白人(多数派)が黒人(少数派)に対して偏見的な見方を始めると、白人は権力を用いて、自分たちに有利な社会システムを次々と生み出していきます。
つまり、偏見が顕在化したのものが、差別です。
実際にアメリカでは、社会的な制度として飲み水場が分けられ、公共交通機関での席の位置も分けられました。
健常者と障がい者の場合も考えてみましょう。
健常者は、障がいを持った人々に偏見(人と違ってておかしいとか生産性が低いとか)を持ち、多数派である自分たちに有利な社会を築き上げていきます。
最近ではバリアフリー化であったり、法的に会社や自治体が障がい者を雇うように整備が進んで来てはいますが、まだまだ十分ではありません。
ひとたび社会の中で制度化されると、その人が偏見を持っているか否かに関わらず、多数派に属する人は、自分が多数派であることを考えることもなく、自然と社会の恩恵を受けて生活していくことができてしまいます。
そのため、多数派の人々が、自分たちにとって社会的に有利な制度や構造を甘受し、それを維持し続けるのであれば、差別問題はいつまでもなくならないのです。
キング牧師は言いました。
「最大の悲劇は、悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙だ。」
多数派に属する人には、ただ「自分は偏見も差別もしない」と自らの立場を明確にするだけではなく、差別問題を社会における共同体の問題として捉え、解決を目指していく態度が求められています。
神さまの救いというのは、ただ個人の魂を救うというのではありません。
神さまは、イエスキリストによってこの世界を贖い、そこに新しい共同体を生み出す計画を持っておられます。
つまり、神さまの救いは、共同体的な救いです。
そこにはもはや、あらゆる民族、人種、性別などによる隔ての壁はなく、多数派や少数派に関係なく、すべてのものが神さまの支配のもとで完全にひとつになる共同体が実現します。
だとすれば、いま教会に求められているのは、存在に対する誤った見方(偏見)を正していくと共に、差別を生み出す社会的な構造を変革していこうとする共同体的な働きなのです。