牧師ブログ

「ドラえもん信仰」の危険性(その3)

ドラえもんが自らの道具で、のび太くんを本当に幸せにしてあげようと思っているなら、のび太くんが自立できるように、自分で考え、責任を持つように導いてあげなければなりません。

でも、驚くことにドラえもんは、最終的には必ずのび太くんの求めに応じてしまうのです。
これぞ「甘やかし」であり、自立を妨げてしまう悪例の典型だと言えるでしょう。(そういう設定のアニメです^^;)

のび太くんはドラえもんに甘え、ドラえもんはそんなのび太を甘やかすという切っても切れないこの二人の関係は、ただの仲良しでは済まされない「共依存関係」です。
のび太くんの将来はいったいどうなってしまうのでしょうか…。

結局何が言いたいかというと、神さまは私たちの願いに何でも応えてあげるという形で、私たちに幸せを与えようとしているわけではないのです。
反対に考えれば、私たちの幸せは自分の願いが全てその通りになるという形で成し遂げられるわけではないということです。

人が神さまに何かを願うことは、ごく自然なことですが、その願いが応えられるかどうかが私たちの幸せを決めるわけではありません。
「願い通りになれば、そうでなければ×」という二元的な見方は、あまりに極端すぎるのです。

そもそも人間の内側から溢れ出る数多の願いが、全部その通りになることなんてあり得ません。
もし私たちが、自分の願いを基準にして生きると「願いが叶うか、叶わないか」が人生の最大の関心事になり、願いに支配され、願いに左右される人生になってしまいます。

神さまは私たちの願いを知らないわけでも、無視するわけでもありません。
聖書には、次のような言葉があります。

「何事でも神の御心(=神さまの心)に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(ヨハネの手紙第一5:14)

私たちが神さまに何を願うのも自由ですが、大切なことは、神さまの心に適うことを神さまが聞き入れてくださるという確信です。
この確信が、底なしに願いが溢れ出てくる私たちの人生を導くのです。
自分の願いがその通りにならなくともそれで絶望することなく、再び現実に向き合い、前進していくことができるのです。

神さまは、ドラえもんのような自分の願いを何でも叶えてくれる「道具」ではありません。
私たちにとって、本当に必要なものを与えてくれる神さまなのです。

(完)