牧師ブログ

「何を誇りに生きていますか?」

 

【ガラテヤの信徒への手紙6:11-16】

11このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
12肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
13割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

パウロが誇ったもの

皆さんの中で、人に誇れるものは何かあるでしょうか?
何を誇りにして生きているでしょうか?

この手紙を書いたパウロには、一つの誇りがありました。
14節を見ると「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」とあります。
パウロが誇りにしていたのは、ただ、イエス・キリストの十字架でした。

フィリピというところに送った手紙の中でも、パウロはこのように言っています。

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(フィリピ3:8)

このように、パウロにとってイエス・キリストのあまりの素晴らしさのゆえに、それ以外のものは塵芥に過ぎませんでした。

この手紙の中でパウロは、自分自身について、誇ることができる点について挙げています。
パウロはベニヤミン族出身で、ヘブライ人(ユダヤ人)として生まれ、八日目に割礼を受けました。
そして、ファリサイ派のメンバーで、律法については自分で非の打ち所がないと言うほど、律法に詳しく、律法を熱心に守り、行っていました。
ユダヤ人から見たら、パウロには誇るべきところがたくさんありました。

パウロは自身の出生やこれまで築いてきたキャリアについて、本来、人に対して誇れるものをたくさん持っていた人物です。
しかし、イエスに出会ってから、パウロはイエスの素晴らしさのゆえに、そういうものを塵あくたと見なすようになりました。
これは決して過去の自分を否定したかったわけではなく、これまで誇ってきたものについて、もう誇る必要がなくなったということでしょう。

ユダヤ人クリスチャンたちの恐れ

パウロが手紙を書き送ったガラテヤのクリスチャンたちの中に、イエスキリストではなく、他のものを誇っている人たちがいました。
それが、12節に出てくる「肉において人からよく思われたがっている者たち」です。

この「肉において人からよく思われたがっている者たち」と13節の初めに出てくる「割礼を受けている者」は同じ人々を指して言っています。

割礼を受けている者といえば、パウロがそうであったように、ユダヤ人のことです。
特に、ここで言われているユダヤ人というのは、ユダヤの伝統を重んじるユダヤ人クリスチャンのことです。

ガラテヤのクリスチャンのコミュニティの多くは、異邦人たちだったと思われます。
その中に、少ないながらもユダヤ人クリスチャンがいましたが、パウロは彼らユダヤ人クリスチャンたちが、ガラテヤのクリスチャンコミュニティを惑わしていることを心配していました。

12-13節を見ると、ユダヤ人クリスチャンたちの中に、異邦人のクリスチャンに対して、無理やり割礼を受けさせようとしていた人がいたようです。

その理由として、パウロは2つのことを挙げている。
一つは、迫害されたくなかったからです。

ユダヤ人クリスチャンたちは、もともとはユダヤ教徒でした。
ユダヤ人として生まれるということは、ユダヤ教徒として生まれることと同じです。

生まれてずっとユダヤ教徒として生きてきましたが、ある時にイエス・キリストを信じて、クリスチャンになったユダヤ人たちがいました。
パウロもその一人です。

こういうユダヤ人クリスチャンたちというのは、ユダヤ教徒からしたら、ユダヤ教のコミュニティを抜け出した裏切り者のような存在に見えたでしょう。

ユダヤ人クリスチャンたちは、数が少なかったということもあり、ユダヤ教徒たちから迫害を受けることを恐れました。
それで、ユダヤ人クリスチャンたちの多くは、イエスを信じた後も、ユダヤ教で大切にされてきた律法を守るべきだと考え、異邦人クリスチャンたちに対して、無理やり割礼を受けさせようとしていました。

これが、ユダヤ人クリスチャンが異邦人クリスチャンに、無理やり割礼を受けさせようとしていた一つ目の理由です。

何を誇ることができるか?

また、もう一つの理由は、誇りたいという思いです。
13節に「あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」とあります。

あなたがた肉というのは、異邦人クリスチャンたちの肉ということです。
異邦人の肉を誇るというのは、理解が難しい表現ですが、これは12節で言われている「肉において人からよく思われたがっている」ということです。

ユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人クリスチャンに無理やり割礼を受けさせることで、人からよく思われたかったのでしょう。

割礼というのは本来、ユダヤ人だけが受けるものです。
この割礼を異邦人が受けるということは、どういうことでしょうか?
それは、異邦人がユダヤ人のようになるということです。

ユダヤ人クリスチャンにとって、異邦人がそれまで信じていた神ではなく、ユダヤ人の神を受け入れ、割礼を受け、ユダヤ人のようになることは彼らの誇りでした。
なぜならそれは、ユダヤ人として自分たちの優位性を示すことだったからです。

おそらくユダヤ人の中に、ユダヤの神が上であり、ユダヤの伝統が一番で、ユダヤ人が上だという感覚があったのだと思います。

こういうことは、どの宗教でも起こることで、キリスト教の中でも起こりえます。
クリスチャンは聖書に証しされている神様が、唯一本物で、正しい存在であると信じています。
それはもっともなことですが、そうすると偶像を信じている人々は間違っていて、クリスチャンが唯一正しい存在ということになるでしょうか?

信仰を持つことは大いに結構なことですが、ユダヤ人クリスチャンたちのように、自分たちの優位性を示そうと思うと、この世を見下し、他の宗教を見下すようになります。
そうすると、自分のことを誇るようになっていきます。
ここが問題です。

クリスチャンの誇りは、決してイエスキリストを信じている自分自身ではありません。
神様が私たちを正しいとみなしてくれるのであり、自分が正しい人間になるわけではありません。

パウロが言っていることは「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」ということです。
パウロの誇りは、ただイエス・キリストだけでした。

私たちは何を誇りに生きていくでしょうか?