自由になりたい
私には2人の娘がいるますが、最近、下の娘が「早く大人になりたい」と言うようになりました。
大きくなって何かやりたいことでもあるのかなと思って、その理由を聞いてみました。
そうしたら「だって、大人は自由だから」と答えていました。
自由にお菓子を食べられるし、ジュースも飲めるし、YouTubeも見られるし、だから早く大人になって、何でも自由にできるようになりたいということでした。
ただ、私たち大人は自由の素晴らしさを知ってはいますが、同時に、自由の恐ろしさも知っていると思います。
例えば、大学生になって1人暮らしを始めた人は経験があるかもしれません。
自由の身だと思って大学生活を始めますが、実家であれば、朝、遅刻しそうになれば親が起こしてくれたり、学校を欠席すれば親から言われたり学校から連絡がありましたが、大学生になったらそうではなくなります。
1人なので当然、毎日自分で起きなければなりませんし、もし学校をサボったとしても、誰かから連絡があるわけでもありません。
何時に家に帰ってきてもいいし、夜更かしして、朝までYouTubeを見たり、ゲームをやったり、自分が好きなように時間を使うことができるようになります。
それで、学校に来なくなり、通うことが難しくなり、退学してしまう人もいるようです。
そう考えると、単に自由を手に入れることに意味があるのではなく、その自由をどのように使うのかが大切であるのでしょう。
律法のもとで争うクリスチャンたち
聖書は、クリスチャンは自由にされた者だと言ってます。
今日分かち合うガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロはクリスチャンの自由について、それはイエス・キリストが律法から自由にしてくれたから、ということを繰り返し語っています。
旧約のモーセの時代に、イスラエルの民は、神様から神の民として生きるために律法というものを与えられました。
この律法には、守るべき教えや掟が定められていて、イスラエルの民は律法を守ることで、神の民として暮らすことができました。
だから、律法を持っているということは、ある意味で安全なことでした。
なぜなら、律法は神の民として、正しいことを教えてくれるからです。
律法を守ることで、正しい選択をし、自分の身を守ることができたのです。
そのため、ユダヤ人のクリスチャンたちは、イエス・キリストを信じたとしても、律法はこれまで通りしっかりと守るべきだと考えました。
それで、ユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人のクリスチャンたちに対して、自分たちと同じように割礼を受けて、律法を守るべきだと教えました。
ガラテヤのクリスチャンたちは、そのように律法を大切にし、律法をしっかりと守ることで、正しく生きようとしたのです。
ただ、実際にはどうだったのでしょうか?
パウロは、手紙の中で「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(15節)、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(26節)と言っています。
こう言っているということは、ガラテヤのクリスチャンたちの間で、そういう争いや対立のようなことが起こっていたからでしょう。
彼らはお互いに敵意を持って、相手を攻撃したり、否定したりしていたようです。
なぜ、律法通りに正しく生きようとしていたのに、争いや対立が起こってしまっていたのでしょうか?
裁き合うクリスチャンたち
その理由は、すべての人が持っている罪深い性質のためです。
人間であれば誰もが、弱さを持っています。
これを聖書では「罪性(罪の性質)」と言っています。
パウロはこのことを「肉」という言葉を使って、説明しています。
19節から21節を見ると、パウロはこの肉の仕業として起こることを挙げています。
「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」です。
どれだけ律法を大切にして、律法通りに正しく生きようとしても、人間である限り、こういう肉と関係なく生きることはできません。
それで問題となるのは、律法がこういう肉を否定してくることです。
律法は正しさなので、罪というものを否定します。
律法からしたら、罪は敵です。
だから、律法のもとでは、罪は裁かれなければなりません。
ガラテヤのクリスチャンたちの間で起こっていた争いは、律法という正しさの基準のもとで起こっていました。
人は律法と肉を同時に持つと、肉に対して敵意を持ち、怒り、裁き、争うようになります。
律法を自分に適用して、自分に厳しくするだけであればまだ良かったかもしれませんが、お互いに律法のもとで裁き合っていたのです。
律法のもとに肉がある時、言い換えれば、正しさの中に罪があると、そこはお互いに裁き合う世界になっていきます。
「なぜ律法を守らないのか?」と、律法という正しさを基準にして、律法を守らない人、守れない人を攻撃し、相手を否定するようになります。
律法と罪の板挟み
ただ、ここで勘違いしてはならないことは、律法自体が悪いわけではないということです。
イエスを信じれば、正しいことなんてどうでもいいということではありません。
イエスによって律法から自由になったからといって、それはやりたい放題やっていい自由ではありません
パウロも13節で「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに…」と言っているように、もし私たちの肉を自由にさせると、肉が暴れ出して、肉の仕業としていろんな罪の問題が生じるます。
パウロがあげた肉の業を見ると「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」とありますが、罪が厄介なところは、自分だけの問題では終わらないところです。
姦淫、わいせつ、好色の3つは性的な問題ですが、性的な問題は、人を巻き込んでいきます。
また、敵意、争い、そねみ、利己心、不和、仲間争い、ねたみというのも、どれも人と関わる中でで起こる問題です。
泥酔、酒宴も、人を巻き込んで問題を起こすことがあります。
このように、罪の多くは人を巻き込んで、相手に傷を負わせ、痛みを与えてしまいます。
そうだとすれば、罪がなくなればいいかもしれませんが、人間として生きる限り、私たちは肉との関わりを100%断つことはできません。
もし、私たちの中から罪をすべてなくそうとするのであれば、人間をやめなければならないでしょう。
自由の使い方
それでは、パウロがここで問題にしていることは何でしょうか?
それは、律法によって人間を判断してしまうことです。
ルールや正しさによって、人間を見て、人を罪に定め、攻撃し、否定してしまうことです。
こういうことはもちろん、ユダヤ人クリスチャンだけの問題ではありません。
律法のように、私たちの中で培ってきた価値観や道徳、倫理的な感覚があります。
これが律法と同じように機能します。
私たちはそれぞれ、環境や性格、人付き合いやいろんなものを通して、自然と自分なりの価値基準を築いていきます。
その基準によって、人を裁き、攻撃し、否定するとしたら、それはユダヤ人クリスチャンがやっていたことと同じことです。
それでは、私たちはどうしたらいいのでしょうか?
価値基準を捨てるべきなのでしょうか?
それとも人間をやめるべきなのでしょうか?
自分の肉に従って歩むのでもなく、律法によって歩むのでもありません。
霊の導きに従って歩むことです。
ここでパウロが言う霊というのは、神様の霊である聖霊のことを言っています。
つまり、霊の導きに従うということは、律法という正しさによって、肉の問題を克服しようとする生き方ではなく、聖霊である神様の導きに従って歩むことです。
これが、イエスキリストが与えてくれた自由な生き方です。
クリスチャンに与えられている自由とは、律法(価値基準)から解放され、霊の導きに従って生きることのできる自由です。
クリスチャンの人生は、単に良い教えを学んで、それを実践しようと頑張る生き方ではありません。
私たちのうちに与えられた聖霊の導きの中で、神様と共に、与えられた自由を楽しむことです。
私たちは、キリストによって与えられた自由を、罪を犯すためではなく、互いに仕えるために用いることができます。
クリスチャンは律法から解放され、罪が赦され、自由の身となりました。
皆さんはその自由をどのように用いていくでしょうか?