牧師ブログ

「わたしは世の光である」

12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」13それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」14イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」(ヨハネによる福音書8:12-14)

エルサレムを照らした光

皆さんは「光」というとどのような光を思い浮かべるでしょうか?
個人的には光GENJIの「パラダイス銀河」が真っ先に思い浮かびますが、聖書はイエス・キリストという光について明らかにしています。

ヨハネによる福音書に、キリストが「わたしは〇〇である」と自分自身について証言している言葉が7つ出てくるが、その中の一つが「わたしは世の光である」という言葉です。
この言葉を通して、キリストは何を伝えようとされたのでしょうか?
それを知るためには、この言葉が語られた場面について知っておく必要があります。

ヨハネによる福音書は場面的には7章からの続きで、仮庵祭という祭りが行われていた時の出来事について記しています。
この祭りは旧約時代にイスラエルの民が、エジプトを脱出したことに起源があります。

神様はエジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民を救い出し、約束の地であるカナンへと導かれました。
しかし、度重なる不信仰により、民はカナンに辿り着くまで、40年間、荒れ野を放浪しなければなりませんでした。

荒れ野を移動する時、民は「仮庵」と言われる仮小屋、いわゆるテントで寝泊りをしました。
この仮庵という小屋は、イスラエルの民の移住生活を象徴するもので、出エジプトという神様の救いを忘れないために、毎年、仮庵祭という祭りが行われるようになりました。

この祭りの最中に大きな火が灯されるのですが、この灯火はイスラエルの民が荒れ野を旅する時に、暗闇の中を導いた火の柱を象徴するものでした。
祭りの期間、この灯火がエルサレムの街中を明るく照らし出したのです。

つまり、イエス様が言われた「わたしは世の光である」という言葉は、仮庵祭で灯されていた火という光に重ね合わせて語られた言葉だったわけです。

暗闇を照らし出す光

そもそも光が存在している目的は何でしょうか?
それは、暗いところを照らすためです。
日が暮れて、夜暗くなった時に、光は本領を発揮して、与えられた役割を果たすのです。

このことを踏まえて「わたしは世の光である」という言葉を言い換えるとすれば、「わたしは世という暗闇の中を照らす光である」ということになります。
イエス様は暗闇の世界に来られたお方であり、イエス様が見ていた世の中は暗闇でした。

イエス様がユダヤ社会に感じていた暗闇とは、具体的にどのようなものだったでしょうか?
「わたしは世の光である」という言葉を聞いたファリサイ派の人々は「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と答えています。
ファリサイ派に代表されるように、ほとんどすべてのユダヤ人は、イエス様のことを拒絶し、最後には十字架で処刑するように要求しました。

仮庵祭の中でイエス様が見ていたこの世の暗さというのは、光として来られたイエス様をメシアとして受け入れることのできない人々の暗さであり、人々の罪がこの世にもたらしていた暗さでした。

今、私たちの目に映る社会はどのように映っているでしょうか?
2000年前に来られたイエスという光は、暗闇の世界を今もなお、照らし続けています。
人間が生き続ける限り、この世のどこかに暗闇は存在し続けるでしょう。
しかし、私たちの人生とこの社会を明るく照らし出すために、すでにイエス様は私たちのもとに来てくださっているのです。