クリスマスの光と影
この社会には、いろんな団体や組織がありますが、クリスマスやバレンタインなどの特定のイベントの時にだけ活動する、ある団体があります。
それが「革命的非モテ同盟」という団体です。
この団体が結成されたのは、団体を立ち上げた方が、好きな女性に告白したものの、その人に振られたことがきっかけだそうです。
その時に「モテないというのは、階級問題だ」ということを悟り、「革命的非モテ同盟」が設立されるに至りました。
この団体は、クリスマスの時期になると、東京の渋谷で「クリスマス粉砕デモ」というものを行っています。(今年は申請ができず中止の模様)
現代表は、日本のクリスマスについて「恋愛がらみのおしゃれな消費をすることに毒されすぎている」、「この時期、恋人がいないといった『恋愛に関係しない人たち』に対する蔑視やさげすみは明らかに間違っている」と本気で主張しています。
確かに、日本のクリスマスは、イエスとは全く関係ないところで、盛り上がる商業的なイベントとして浸透しており、本来のクリスマスとはかなりかけ離れたものになっています。
このように、クリスマスを楽しみに迎える人がいる一方で、クリスマスの粉砕を目指す人たちがいます。
クリスマスというとキラキラした明るいイメージがありますが、見えないところで悲しみや怒りを感じている人々がいることもまた確かです。
クリスマスの光の裏には、現れてこない影があるようです。
実は、聖書もクリスマスの物語について、イエスの誕生はキラキラした明るい世界で起こったことではなく、暗闇の中で起こったのだと伝えています。
2000年前にイエスが誕生した世界は、明るく美しい世界ではなく、暗闇の世界でした。
クリスマスの真実
当時のユダヤは、ローマという強大な国によって支配されていました。
マリアが身ごもっていた時に、ローマ皇帝は、ローマが支配する全ての住民に対して、住民登録をするように命令しました。
その目的は、戸籍を整理して、人々から税金を集めるためだったようです。
この時、マリアと婚約者のヨセフは、イスラエルの北にあるナザレという町で暮らしていました。
この住民登録は、自分の町で行わなければなりませんでした。
ヨセフのふるさとは、イスラエルの南側にあるナベツレヘムというところだったため、二人はベツレヘムまで移動して、そこで住民登録をしなければならなかったのです。
ベツレヘムとナザレは、直線距離で100km以上も離れたところにあり、当然、当時は、今みたいに道路は整備されていない時代です。
そんな中で、子供を身ごもっている女性が、100km以上の距離を移動することは、マリアとお腹の中にいる子供の命に関わる危険なことでした。
マリアとヨセフの二人はなんとかベツレヘムまでたどり着くことができましたが、その時に、マリアは産気づいてしまいました。
とりあえず、二人はすぐに子供を産むために宿を探しましたが、その時は、住民登録をするために、他の町からも多くの人々がベツレヘムにやってきていました。
そのため、二人は泊まる場所を見つけることができませんでした。
結局、二人が子供を産むために選んだ場所は、家畜小屋でした。
生まれてきた子供は、家畜小屋の飼い葉桶に寝かされました。
これが、イエスキリストが誕生した場面であり、聖書が伝えているクリスマスの物語です。
この物語を聞いて「うわぁ、なんて素敵な話なの、ロマンティック〜」と思う人はなかなかいないと思います。
二人はローマという国家権力の前に、ただ従わなければならない理不尽さ、子供が産まれそうなのにそれを誰も理解してくれない苦しみ、初めての出産を家畜小屋で迎えなければならなかった恐怖、生まれてきた子供を不衛生な飼い葉桶に寝かせてあげることしかできなかった悲しみを感じていたことでしょう。
このように、クリスマスの物語というのは、決して、美しい世界の中で起こった話ではありません。
家畜小屋の中で、生まれたばかりの幼子を抱いているマリアと、その側に寄り添っていた夫のヨセフの姿を想像してみてください。
私たちがクリスマスからイメージするキラキラした明るい感じやあたたかさなどは、一つも感じられないと思う。
でも、これがクリスマスの真実なのです。
暗闇の正体
それでは、ヨセフとマリアを襲ったこの暗闇は、どこから来たのでしょうか?
この暗さの正体とは、一体何なのでしょうか?
当時のユダヤ社会を覆っていた暗闇は、人間の罪が権力と結びついたことによるものでした。
当時のユダヤを支配していたローマ、武力による破壊と殺戮によって、その支配を拡大していました。
「パクス・ロマーナ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
「ローマによる平和」という意味ですが、これは、ローマ帝国の支配下にあった地中海世界が平和で繁栄していた時代を指す言葉です。
確かに、ローマ帝国が支配したところは治安がよくなり、物や人の交流が盛んになり、都市も発展しました。
しかし、ローマによる平和は、見せかけの平和でした。
なぜなら、それは武力と権力によってもたらされたものだったからです。
武力と権力によって支配されたところは、必然的に、暗闇の世界になっていきます。
この世界に暗闇を生み出す大きな原因の一つは、人間が権力を濫用してしまうことにある。
今の世界、また世界の歴史を見てみれば、人間の権力が多くの暗闇を生み出してきたことがわかると思います。
国家権力の前では、正当な主張など通用しません。
ただ、服従するしかないのです。
この問題は、決して国家という大きな単位だけに限ったものではありません。
職場や学校、家庭などでも同じことが起こります。
上司が部下に対して、先生が生徒に対して、親が子供に対して、不当に権力を振りかざすならば、ハラスメントや暴力によって、そこは暗闇の世界になっていきます。
不当な支配やコントロールがあるところでは、人間は幸せになることはありません。
このように、社会を暗くしているのは、私たち人間なのです。
神様を見失った世界
この世界の暗闇は全て、人間が作り出しているものですが、どのようにしてこの暗闇が始まり、広がっていったのでしょうか?
聖書から考えうる原因は、人間が神様を見失ってしまったことにあります。
創世記を見ると、世界の始まりは暗闇の状態でした。
このように、世界は最初、混沌としていて、闇に覆われていました。
暗闇の世界の中で、神様は創造のわざを始められたということです。
神様は「光あれ」と、光を創造するところから始め、太陽や月、海や陸地、植物や動物、そして、最後には人間を造られました。
このようにして、神様は、混沌とした暗闇の世界に、秩序を与えていきました。
神様の天地創造というのは、混沌としているところに秩序を与える行為だと言えます。
これが意味していることは何でしょうか?
それは、神様がおられるところ、神様が働かれるところからは、混沌や暗闇が追い出されるということです。
暗闇の世界が、光の世界、秩序のある世界になるということです。
しかし、神様が創造した光の世界が、再び暗闇の世界へ逆戻りしてしまうようなことが起こりました。
アダムとエバの二人が、神様から独立宣言をして、自分たちだけで生きる道を選択したことです。
二人は、自分たちの世界から、神様を追い出しました。
それによって、人間はお互いを責め合い、否定し合う関係になっていきました。
そして、相手を支配してコントロールする歪んだ関係を築くようになっていったのです。
「光あれ」
このようにして、神様を追い出し、神様を見失った世界は、暗闇の世界になっていきました。
そんな暗闇の世界に、神様がもう一度「光あれ」と光を創造してくださった出来事があります。
それが、クリスマスです。
神様はイエスを暗闇の世界に光として送ってくださいました。
人間が作り出した暗闇の世界に、神様自ら、来てくださったのです。
クリスマスの時期になると、街はイルミネーションで明るく輝くが、でもこの光はもう何日か経ったら、消えてしまう光です。
私たちにとって、本当の光とは何でしょうか?
私たちにとっての本当の光とは、イエスキリストという光です。
クリスマスの物語が伝えていることは、人間が作り出した暗闇の中に、イエスが光として来てくださったということ。
イエスという光は、暗闇の中を歩むためにすべての人に与えられた、真の光です。
神様は人間が暗闇の世界で生きていくことを願ってはいません。
お互いに責め合い、否定し合う関係を築くことを悲しんでおられるでしょう。
もちろん、人間が生きている限り、この世界から暗闇が完全に追い出されることはありません。
私たちは、これからも濃淡はありますが、暗闇の中を生きていかなければなりません。
それでも、神様は私たちが作り出した暗闇の世界の中で、私たちと共に生きてくださるのです。
私たちが神様と共にこの世界を築いていくのであれば、この世界から暗闇が少しずつ追い出され、光の世界へと変えられていくはずです。
イエスキリストの誕生を心から感謝します。
メリークリスマス!