喜ぶべき?悲しむべき?
今読んだところは、「だから」という言葉から始まっているように、その前まで語られていたことを踏まえて、ヤコブがまとめの話をしている箇所です。
ヤコブがこの手紙を通して伝えようとしていることは「信仰による行い」についてです。
この手紙の中で特に有名な言葉があります。
それが「行いを伴わない信仰は死んだものである」というものです。
ヤコブは手紙の中で、神様を信じる者は、具体的にどのように生きるべきであるかについて、語っています。
今日の言葉の直前、4:6で、ヤコブは旧約聖書の言葉を引用して「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」と言っています。
ヤコブが言っている信仰によって行うということは、謙遜さから出てくるものです。
つまり、神様を信じる者として、謙遜な生き方とはどういうものかをヤコブは語っているのです。
その1つのまとめとして、今日の言葉がありますが、皆さんは7節から10節を読んでみて、何か引っかかるところはなかったでしょうか?
すんなりと読めたでしょうか?
7〜10節までの中で、9節だけがちょっとカラーが違うというか、方向性が違うように感じます。
9節以外は、神様に従いなさいとか、自分自身を清めなさいとか、神様の前に謙遜になりなさいという話で、聖書の他の箇所でも割と言われていることなので、うんうんそうなのかと理解できますが、9節はちょっと違うことを言っています。
ヤコブは悲しむこと、嘆きこと、泣くこと、憂うことを勧めています。
こういう言葉は、旧約聖書の中で、イスラエルが滅びる前に、エレミヤあたりの預言者たちが言っていそうな言葉に聞こえます。
クリスチャンの感覚からすれば、むしろ、その反対のことを考える人がもっと多いと思います。
悲しみなさいではなく、喜びなさい。
嘆きなさいではなく、感謝しなさい。
泣きなさいではなく、笑いなさい。
心配しなさいではなく、信じ、祈りなさい。
これまで礼拝のメッセージで、こういう話を聞いたことがある人もいると思います。
もちろん、それは聖書の中にそういう話があるからです。
例えば、テサロニケの信徒への手紙の中で、パウロは「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」と言っています。
このパウロの言葉と、ヤコブが言っていることは、ほぼ正反対のことです。
私たちは喜んでいるべきなのでしょうか、それとも、悲しむべきなのでしょうか?
嘆いてもいいのでしょうか、それとも嘆くのではなく、感謝すべきなのでしょうか?
パウロとヤコブの言葉は矛盾しているように感じますが、聖書という書物の性格を理解すれば、2人が言っていることがなんとなくわかってきます。
聖書は旧約聖書から、新約聖書まで、一つのテーマで貫かれていますが、ここで大切なのは、その内容です。
聖書が伝えていることは、神様は私たちのこの世界と私たち一人一人のことを尊く大切に思っているということです。
具体的な生き方というのは、あくまでのその時代その時代の人々の反応であり、常に決まった形があるわけではありません。
聖書の登場人物の真似事をしていればいいというわけではありません。
なぜなら、みんなそれぞれ違う人生を生きているからです。
みんなオリジナルな存在として生まれ、性格や考え、生きている背景、環境が違うからです。
もちろんそこには愛という土台はあると思いますが、それに基づいて、それぞれがアドリブで生きていくのが信仰による人生なのです。
喜びも悲しみも人生
だから、私たちには喜ぶべき時もあるし、悲しむべき時もあります。
感謝する時もありますし、嘆き、泣きたい時もあります。
ヤコブは信仰によって謙遜さを持って行うことを勧めているが、実は、謙遜であることと4:9の言葉は深くつながっています。
悲しむこと、嘆くこと、泣くこと、心配することというのは、神様の前にへりくだることです。
どういうことかというと、神様を信じる人は、ただ悲しむのでも、ただ嘆くのでも、ただ泣くのでもありません。
神様の前で悲しむことができます。
神様に対して、嘆き、訴えることができます。
神様に対して、自分の不安や心配を打ち明けることができます。
こういうことは、人に対して、誰彼かまわずできることではありません
本当に信頼できる人でないと、自分の本心を打ち明けることは難しいのです。
なぜなら、悲しんだり、嘆いたり、泣いたりすることは、自分の弱さを露わにすることだからです。
でも、神様に本当の自分を隠さずに、思っていることを打ち明けることは、謙遜じゃないとできません。
ヤコブはこの手紙の中で、神様を信じているのに、高慢な態度で振る舞っている人に、警告するように語っているところがあります。
ヤコブからしたら、そういう信仰は死んだものです。
具体的には、自分はよく知っている、自分はよくわかっている、自分はよくできている、という態度で生きていることです。
聖書の中で言えば、イエス様とよく論争をしていたファリサイ派とか律法学者の姿が思い浮かびます。
自分はわかっている、自分はできているという感覚でいると、神様の前で悲しんだり、神様に嘆いたりすることはあまりありません。
ファリサイ派の人々も、律法を守らない人々と自分たちを比べながら、神様の前で喜び、神様に感謝したりすることの方が多かったと思います。
それって本当に謙遜?
私がよく見ているYouTubeの中の1つで、神学校で授業を受けていた牧師のものがあります。
その方は毎週日曜日に動画をアップしていて、ちょうど先週の動画の中で言っていたことが、結構、印象に残っていてその言葉を紹介したいと思います。
それが「クリスチャンは、自分は情けないと思っているくらいがちょうどいい」というものです。
これは、自分はダメなクリスチャンだと自分を責めるということではありません。
自分にはよくわからないこともあるし、わかっていてもなかなかできないこともある、でもまあ神様が共にいるからやっていけるという態度です。
謙遜さというのは、勘違いされていることの1つです。
日本的謙遜というものがあるように思いますが、それは必要以上に自分を下げ、自分を低く見積ることです。
「私はそんなものではありません」「私にはとんでもありません」
このように受け答えすることが、必ずしも謙遜さではありません。
それとは反対に、自分を上げ、自分を盛って表現することもあるでしょう。
誰だって人からよく見られたいわけですが、必要以上に自分を盛り過ぎてしまうことがあります。
それでは、聖書が言う謙遜さとはどんなものでしょうか?
それは、神様が造ってくださった自分をそのまま受け止めていることです。
ありのままの自分を受け止めていることです。
自分を必要以上に下げることなく、また必要以上に盛ることなく、等身大で生きていることです。
できることはできると、できないことはできないという自然体でいられることです。
だから、謙遜になろうと頑張り過ぎる必要はありません。
私たちはいつでも、ありのままの自分の姿で、神様の前で悲しむことも、嘆くことも、泣くこともできます。
神様の前で自分を隠すことなく、偽ることなく生きることが、本当の意味で謙遜な姿だと言えるのではないでしょうか。