牧師ブログ

「この世界には目に見えにくい宝が隠されている」

【マタイによる福音書13:44-46】

44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

お宝の価値

皆さんは何か「宝」と言えるものは持っているでしょうか?
有名なアーティストの絵画や作品などのお宝を鑑定してもらう「なんでも鑑定団」というT番組があります。
その宝物が本物であるのかどうか、本物であるならいくらなのか、値段をつけてもらいます。

番組史上、一番高かったのが、佐賀県の有田焼として名高い柿右衛門様式の壺で、そのお値段はなんと5億円です。
この番組を見ると、うちにも何かお宝眠ってないかなと考えますが、残念ながら何もないようです。

番組にお宝を持ってくる人は、それを売ろうと思って、値段をつけてもらっているわけではないと思います。
5億円の壺も、私だったら売ってお金に変えてしまうと思いますが、それを所有している本人にとっては、本当に大切なお宝なので、たぶん売ってはないのだと思います。

宝というのは、客観的な価値が数字で示されているお金と違って、その人にしかわからない価値があります。
他の人が見たら、あまり価値があるように思えないようなものであっても、本人にとっては絶対に手放すことのできないもの、それが宝というものです。

聖書の中で、キリストが宝にたとえているものがあります。
それが、天の国です。

マタイによる福音書の13章の中で、キリストは、天の国を「宝」と「高価な真珠」にたとえています。
この中でキリストは、天の国というのは自分の持ち物を全て売り払って、買うほどに価値があるものだと言っています。
それまでは、これだけは絶対に売れないと思っていたものを売ってまでして、手に入れるだけの価値があるものが、天の国だと言うのです。

目には見えないけど…

そもそも、聖書の中にたびたび出てくる「天の国」とは何のことでしょうか?
天の国というのは、チケット制や会員制の場所のことではありません。
天の国に入るためなら、いくらお金を積んでもいいと考える人もいるかもしれませんが、天の国はお金で買えるようなところではありませんし、死後の世界の話でもありません。

天の国とは、神様の支配とか統治を意味する言葉です。
なので、天の国を得るというのは、神様の世界の中で、神様と一緒に生きていくという生き方に関わるものです。

天の国にはある特徴があって、それは、隠されているものだということです。
44節に「畑に宝が隠されている」とあり、45節には「商人が良い真珠を探している」とあります。
宝も良い真珠も隠されているので、探して、見つけなければなりません。
神様の支配や統治というのは、畑に隠されている宝のように、普段、私たちの目からは隠されていて見えないものなのです。

天の国とは反対で、私たちの目によく見えるのが、この世界です。
この世界では毎日、辛く悲しい出来事が起こっていて、そういう目に映る現実を見れば見るほど、そこに神様の存在やその支配というのは見えにくいものです。
「神がいるなら、なぜこんなことが起こるのか」と、この世界は悪の力が支配しているように感じるでしょう。

しかし、神様はこれまで見えていなかったものを見ることができるようにしてくださいました。
私たちが天の国を見ることができるように、神様はキリストをこの世界へと送ってくださったのです。
キリストは、十字架という苦しみも死も、その歩みを通して、すべては神様の支配の中にあることを見せてくださいました。

キリストによって明らかにされた天の国がわかると、私たちは目に見えるものがすべてではないということがわかるようになります。
神様の世界で、神様と一緒に生きていきたいと願うようになります。
目には見えるものよりも価値があるものを知ったなら、私たちは自分の人生をそのために生きていきたいと思うようになります。
ただ自分のためではなく、この世界と周りの人々に関心を向けて、誰かのために生きていくようになるのです。

実際に、この歴史の中で、自分の時間、能力、持ち物、命、こういうものを天の国のために捧げて生きた人々がいます。
誰かを愛するために、誰かの救いのために生きた人々がいたからこそ、この日本にも教会があり、今私たちがここに集まっているのです。

私たちの人生を通して、神様の世界で神様と一緒に生きていくことががどれほど素晴らしいものであるのか、その価値が現されていくことを願います。