礼拝を取り上げられた民
信仰の共同体である教会にとって、最も大切なところはどこでしょうか?
それは、三位一体の神様を礼拝しているかどうかにあります。
教会の本質はこの「礼拝」にあるのであって、どれだけ慈善活動をしているのか、どのように宣教活動をしているかということは、二次的、三次的なことです。
とにかく、教会から礼拝が取り上げられてしまえば、それはもはや教会とは言えなくなるでしょう。
旧約時代のイスラエル(南ユダ)は、バビロン捕囚によって、礼拝が取り上げられるという憂き目にあった民族です。
エルサレムの神殿が破壊され、バビロンへと連れ去られていきました。
信仰共同体の中心である神殿が破壊されたことにより、イスラエル民族は神の民というアイデンティティを失う危機にさらされてしまったのです。
建て直してくださる神様
だからこそ、捕囚から帰還した後に、真っ先に行われたことは、神殿の再建工事でした。
その中心にいたのは、他ならぬ主なる神様でした。
神様がペルシアの王の心を動かして、捕囚の民がイスラエルに帰還するように導かれました。
神様が捕囚の民の心を動かして、祖国に帰還して、神殿を建て直したいという心を与えました。
バビロン捕囚からの解放とイスラエル再建の中心にいたのは、他ならぬ主なる神様でした。
神様はご自身の民を信仰の共同体として再建してくださったように、破壊されたものが建て直されるように、助け、導いてくださるお方です。
何かが破壊される時、そこには往々にして人間の罪というものがあります。
この世界は、人間の罪によって堕落し、あらゆるものが破壊される危険をはらんでいます。
神様は、そんな傷んだ世界とそこで悲しむ人々が再び建て直されることを願っておられるお方です。
あらゆる痛みと嘆きが響くこの世界にあって、主なる神様を見上げる時に、そこに回復の希望を見出すことができるのです。