荒れ野で叫ぶヨハネの声
キリストが公にユダヤ社会に姿を現す前に、突如としてユダヤに登場した人物がいます。
それが、洗礼者ヨハネという人です。
マタイがヨハネについて重要なこととして書いていることは、ヨハネが旧約聖書で預言されていた人物だということです。
このように、洗礼者ヨハネはユダヤの社会に姿を現す何百年も前に、預言者イザヤによって、預言されていて、イザヤは、このヨハネについて「荒れ野で叫ぶ者の声」だと言っています。
荒れ野でヨハネが叫んでいたのは「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉です。
この言葉をより厳密に訳すと「悔い改めよ。なぜなら天の国が近づいたから」となります。
このように洗礼者ヨハネが叫ぶ声を聞いて、大勢の人々がユダヤ中から、ヨルダン川にいるヨハネのもとを訪れ、洗礼を受けていました。
「悔い改め」と「天の国」
ヨハネが叫んでいた言葉の中で「悔い改め」と「天の国」という言葉には、それぞれどのような意味があるでしょうか?
「悔い改め」という言葉は、日本語では「悔いる」と「改める」という2つの言葉がくっついて「悔い改め」という言葉になっているが、これは単純に「後悔する」とか「反省する」という意味ではありません。
「悔い改め」という言葉は、元々のギリシャ語では「方向を変えること」を意味する言葉。です。
後悔とか反省というのは、人間の内側から出てくる自然な感情で、別に神様のことを知らなくてもできることです。
しかし、悔い改めが「方向を変える」という意味の言葉であることを踏まえると、ここで洗礼者ヨハネが叫び求めたことは、神様ではないところから、神様のもとに方向を変えるということです。
そのためには、神様の側からの呼びかけがなければなりません。
それで神様は、これまでに何人もの預言者(イザヤとかエレミヤなど)をこの世に遣わされ、そして、最後の預言者として洗礼者ヨハネをユダヤに遣わして、悔い改めるように呼びかけておられるのです。
また、ヨハネが叫んでいたもう一つの言葉が「天の国は近づいた」という言葉です。
聖書の中に、天の国と似たような言葉で、神の国とか、神の御国、天の御国、天国という言葉が出てきますが、これらは全部同じ意味の言葉です。
私たちが天の国、天国という言葉を聞いて思い浮かべるのは、死んだ後の世界である天国だと思いますが、聖書で天国という時には、必ずしも死後の世界のことを言っているわけではありません。
ここで「天」という言葉は「神様」のことを指していて、また「国」というのは「王国」とか「統治」「支配」という意味の言葉です。
なので、天の国というのは、神の王国、神が王として統治していることを意味します。
まとめると「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉は「神様が王として支配する世界が近づいたので、神様のもとに立ち返り、神様と共に生きなさい」ということなのです。
真の悔い改め
神様が王として来られるところには、救いと同時に裁きがあります。
イエス様が再臨する時、この世界は完全に救われますが、それは裁きの時でもあります。
だからこそ、神様は洗礼者ヨハネを通して、またイエス様を通しても「悔い改めよ」と呼びかけられました。
ヨハネの声を聞いて、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から大勢の人々が、ヨハネのもとを訪ね、罪を告白し、洗礼を受けていました。
ヨハネのもとに来た人々の中には、ファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教のグループに属する人々もいました。
彼らは「悔い改めよ、天の国は血づいた」という声を聞いて、ヨハネのもとに行き、罪を告白し、洗礼を受けていたはずですが、ヨハネは彼らの歪んだ心を指摘しています。
この言葉からわかることは、ファリサイ派やサドカイ派の人々の中に「罪を告白して洗礼を受ければ、神の怒りを逃れることができる」という教えが信じられていたということです。
つまり、彼らは神の裁きを逃れるために罪を告白し、洗礼を受けていたのです。
これは「悔い改め」ではありません。
いくら神様が罪を告白したり、洗礼を受けたりすることを願っていても、そういう行為が人を救うわけではありません。
「悔い改め」とは、神の裁きを逃れるためにすることではなく、神のもとに立ち返ることです。
そのために、神様は今も私たち一人一人に呼びかけておられるのです。