ファリサイ派の狙い
ある時、ファリサイ派の人々がイエス様のところにやってきて、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねました。
彼らがこのように聞いたのは、純粋に離縁に関する律法の教えを聞き出すためではなく、イエス様を試すためでした。
そこには、明確に敵対的な意図がありました。
彼らの狙いは、イエス様のことを当時ユダヤを治めていたヘロデ王に訴えることにありました。
その背後にあったのが、ヘロデ王と女王ヘロディアの結婚問題です。
ヘロディアの美貌に惚れ込んだヘロデは、自分の妻を捨てて、ヘロディアの方も、夫と別れて、ヘロデと一緒になりました。
この問題を指摘したのが、洗礼者ヨハネです。
その結果、ヨハネは捕らえて牢屋に入れられ、ヘロデの誕生日パーティの時に、首をはねられて殺されてしまったのです。
ファリサイ派は、イエス様が「離縁してはならない」と答えれば、そのことをヘロデに告発して、イエス様のこともヨハネと同じように殺すことができると考えたようです。
離縁=罪なのか?
ファリサイ派の問いかけに対して、イエス様はどのように答えたのでしょうか?
イエス様は「モーセはあなたたちに何と命じたか?」と彼らに問い返されました。
そうすると今度、ファリサイ派は「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。
離縁に関するファリサイ派の見解は、律法によると「離縁状を書く」という条件付きで離縁できるというものでした。
それに対して、イエス様は結婚の原則について語っていきます。
そして、結論として「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われました。
ファリサイ派は離縁を条件付きで認めており、イエス様は離縁を認めないと取れることを言われました。
このところから、キリスト教は離縁についてかなり厳しい目を持って見てきました。
しかし、ここでイエス様が伝えようとしておられることは、単に離縁はダメ、離縁は罪だという話ではありません。
クリスチャンはキリスト教的な観点から、物事を罪か罪でないか、○か×かで判断しようとします。
離婚のことだけではなく、自殺や中絶、同性愛などについてもそうです。
どれも難しい問題ではありますが、何でもかんでも罪か罪じゃないかで物事の善悪を図る見方は、律法主義です。
私たちが常に心に留めるべき聖書のメッセージは、イエス様は私たちを罪に定めるためではなく、罪から救うために来られたお方であるということです。
イエス様はこの世界とそこで起こっているあらゆる問題を評価し、裁くために来たのではなく、すべての人々を例外なく救うために来られたお方です。
イエス様の真意
それでは、ここでイエス様が言おうとされた真意はどこにあるのでしょうか?
このことを理解するためには、当時の社会的な状況を知っておく必要があります。
ファリサイ派の条件付きで離縁を認める見解は、申命記の御言葉に基づいたものでした。
この中に「何か恥ずべきこと」とか「気に入らなくなったとき」とありますが、これらの言葉の解釈を巡って、ファリサイ派の中でも離婚に関する考えは分かれていたようです。
保守的なグループは、離縁に消極的で、彼らは「恥ずべきこと」を「姦淫」に限定して考えていました。
それに対して、自由主義的なグループは、「恥ずべきこと」や「気に入らなくなったとき」というのを「妻が作った料理がまずかった」とか「妻よりも魅力的な女性に出会った」とか、そういう理由でも離縁を認めていたのです。
彼らの見解が示しているように、当時、妻の地位というのはとても低いものがありました。
妻の側から、夫に離縁を申し出ることは、社会通念上、決して許されていませんでした。
ユダヤ社会では、離縁する権利は夫にだけあるとされていたのです。
これを踏まえた上で、イエス様が言われた言葉を解釈する必要があります。
イエス様は男性優位な社会にあって、女性の権利を守ろうとされたのです。
あまりにも簡単に妻が捨てられ、女性の人権が無視されていた社会に警鐘を鳴らす意味で、イエス様は結婚や離縁に関する言葉を述べたのです。
この世界の片隅に至るまで
そのように、イエス様は常に弱い者の側に立って、物事を考えてくださるお方です。
もし、離婚を経験したことがある人がいれば、イエス様はその人に向かって「離婚は罪です」と言われることは間違いなくないでしょう。
その人が離婚する過程で負った痛みや傷を慰めてくださり、寄り添ってくださるのがイエス様です。
社会の中で片隅に追いやられているような人、社会から置き去りにされていると感じている人のところへ、イエス様は来てくださるのです。
その代表が女性であり、また今日の本文の後半に出てくる子供たちです。
イエス様に触れていただこうと、人々が子供を連れてきた時、弟子たちはその親を叱りつけました。
弟子たちの中には「子供なんかが軽々しくイエス様に近づいてはならぬ!」という考えがあったようです。
イエス様はこれを見て、憤りを露わにしました。
そして弟子たちに対して「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われました。
ユダヤでは、立派な大人になって、律法を守って生きる人こそが神の国にふさわしいと考えられていましたが、イエス様は、神の国はむしろ、子供たちのものだと言われました。
このように、女性や子供という社会的に弱い立場に置かれている人を、イエス様は温かい眼差しで見ておられたのです。
イエス様は、この世界の片隅に来られたお方であり、私たち一人一人に愛をもって接してくださる愛の神様です。