脅しの言葉?
この御言葉は、イエス様が弟子たちに向かって語られた言葉ですが、この中でイエス様は「手や足を切り捨ててしまいなさい」とか「目をえぐり出しなさい」と言っておられます。
また、地獄についても語っており「地獄の消えない日の中に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」という話をしています。
ですので、一見すると、これは裁きの御言葉のように感じます。
しかし、ここでイエス様が語っておられることは、そういう裁きではなく、むしろ、赦しの言葉であり、すべての人々を救いへと招いておられる約束の御言葉です。
まず、42節でイエス様は「小さな者」をつまずかせることについて語っています。
ここで「小さな者」というのは、子供や信仰的に弱い人のことを指しています。
「小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」という言葉は、確かに、隣人との関わりにおける警告文だと言えます。
また、43節から47節では「自分自身」をつまずかせることについて、イエス様は語っています。
そこでは、片方の手や足、また片目があなたをつまずかせるなら切り捨ててしまいなさい、えぐり出しなさいということが語られています。
これだけを聞くと、裁きの言葉のように聞こえますが、イエス様が本当に願っておられることは、私たちが裁かれることー海に投げ込まれて、死をもって報いるべきであるーとか、己をつまずかせる手足や目を処分することではありません。
唯一の願い
イエス様の願いは43節から47節のそれぞれ後半の部分に表されています。
「両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」
「両足がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい」
「両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」
これらの言葉が表していることは、たとえ大切なものを失うようなことがあっても、とにかく命にあずかってほしい、神の国に入ってほしいというイエス様の切なる願いです。
誰かのことを見て、その人のことを「小さな者」として扱って、神様との関わりにおいてつまずかせないでほしいとイエス様は願っておられます。
同じように、私たち自身が、手足や目を失うほどの悲劇を体験したとしても、それによってつまずかないでほしいと、イエス様は願っておられます。
イエス様は私たちに対して「ああしてほしい」「もっとこうなってほしい」ということを願っておられるわけではありません。
私たちに対するイエス様の唯一の願いだと言えることは「命にあずかってほしい」「神の国に入ってほしい」ということです。
これはつまり、私たちが神様との関わりを回復し、神の子供として生きてほしいということです。
そのために、父なる神様はイエス様をこの世界へと遣わしてくださいました。
私たちの目には、誰かのことや自分自身のことが「小さく」見えることがありますが、イエス様がこの世に来られたことが意味していることは、一人一人がイエス様の目には「値高く尊い」ということなのです。