本当に神による裁きだった?
イスラエル王国は、北イスラエルが滅びてから140年ほど後に、南ユダはバビロンの手によって占領され、紀元前586年に、完全に崩壊を迎えることとなりました。
神の国としてスタートしたはずのイスラエルは、なぜそのような顚末を辿ることになってしまったのでしょうか?
歴代誌を書いた記者は、南ユダが滅ぼされたことについて「神様がバビロンの王を動かした」とか、「神様がユダの民をバビロンの手に渡した」と言っています。
そうだとすると、神様がユダの滅亡を計画し、実行したということになりますが、これはなかなかどうして受け入れがたい話です。
ユダの人々の命は、そんなにも簡単に奪われてよいものだったのでしょうか?
この不可解な問題を理解するためには、そもそも旧約聖書という書物がなぜ書かれたのか、その意図を考えておく必要があります。
歴代誌という書物は、紀元前4-5世紀頃、ユダの民がバビロンからエルサレムに帰還した後に書かれたと考えられています。
当時のイスラエルは、神殿や城壁が破壊されたままで、荒れ果てたままでした。
国の存亡の危機に立たされていた民は、これからもう一度イスラエルを再建するという大きな課題に直面していたのです。
つまり、歴代誌は捕囚後の民に向けて書かれた書物であり、過去の悲劇を振り返りつつも、これから神の民としてどう生きていくべきかという、新しい展望を示すために書かれた書物なのです。
終わりが終わりでなくなる
これを踏まえて考えると、ユダの滅亡について、このように理解することができます。
ただ、いくらユダが堕落しまくっていたからといって、愛と恵みの神様がユダの滅亡を計画し、それを実行するようなことはされないはずです。
そうだとすれば、まるで神様が計画し、実行したように思われる出来事は、歴代誌の記者がそのように「解釈した」ということに過ぎないということになります。
今日の御言葉が本当に伝えたいことは「神様は自分たちの罪を裁かれた」ということではありません。
そうではなく「自分たちは神様から裁かれても仕方ないほどに堕落していた。でも、今後はもう、同じ過ちを繰り返さないようにしよう」ということこそ、歴代誌の記者が当時の民に伝えたかったメッセージの核心でしょう。
完全に滅びたイスラエルは、誰の目にも国として終わったように見えました。
しかし、旧約聖書の歴史が行き着くところは、破滅と絶望ではありません。
確かに、イスラエルが経験したことは、大きな悲劇に違いありませんでしたが、聖書は絶望のその先にある希望を指し示しています。
それが、回復という希望です。
神殿と城壁が再建され、エルサレムが回復していくという希望です。
しかも、これはただの回復の物語ではありません。
イスラエルは、神様から裁かれたと理解したほどに、神様を裏切り、離れていました。
それにも関わらず、神様の憐れみによって、神の国、神の民として回復していく物語がイスラエルの歴史です。
あれほど堕落しきっていた民でさえも、神様はイスラエルを見捨てることなく、再建の道を開いてくださったのです。
いくら自分が絶望的な状況に置かれることがあったとしても、それは神様の裁きとして起こったことではありません。
どんな状況にあっても、神様は私たちから離れることなく、そこから再び回復の道へと導いてくださるのです。