牧師ブログ

「どっちつかず」

エリヤを遣わした神様の真実さ

神様による訓練が3年を過ぎた時に、再び神様の言葉がエリヤに臨んだ。
「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」
3年の時を経て、エリヤはいよいよアハブ王の前に立つことになった。

ただ、エリヤにとってアハブの前に行くことは決して簡単なことではなかった。
この時、イスラエルにはエリヤが告げていた通り、3年もの間、干ばつによって飢饉が続いていた。
そのため、アハブ王は飢饉の原因を作ったエリヤを探し回っていた。
おそらくアハブはエリヤを見つけ出して、殺そうと考えていたと思われる。

なので、エリヤがアハブ王の前に立つことは、命をかけた挑戦だった。
エリヤは自分の命を顧ることなく、イスラエルの霊的な回復を願い、アハブの元に向かっていった。

命を危険に晒してまでも、エリヤをアハブの元に向かわせたものは何だっただろうか?
そこにあったのは、ただエリヤの情熱だけではなかった。
エリヤを遣わしたのは神様であり、「雨を降らせる」という神様の約束の言葉によってエリヤはアハブの元に向かっていった。

つまり、エリヤが「アハブの前に姿を現せ」という神様の命令に従うことができたのは、3年もの間、飢饉が続いているイスラエルに「雨を降らせる」と約束した神様の言葉を信じたからである。
神様の約束の御言葉がエリヤを奮い立たせたのであり、エリヤの信仰は「神様は真実な方である」という神様への信頼によって成り立っていた。

真実さを表す神様の約束

神を信じる者は「神様は真実な方である」と信じていると思うが、神様の真実さはどのように証明できるのか?
「神様は真実な方である」いうのは、言い換えれば、「神様は言われたことを必ず成し遂げる方である」ということである。

「真実さ」というのは、その人の言動によって明らかにされる。
言動が不一致であるならば、真実に欠けており、一致しているのであれば、真実であるとみなされる。

つまり、神様の真実さというのは、これまで神様が言われたことをどのように成し遂げて来られたのかを知ることによって分かる。
神様はご自身の「真実さ」を人々に明らかにするために用いられたものがある。
それが「契約」である。

あらゆる契約の中でも、神様の真実さが最もよく表された出来事がイエスキリストによって表された救いの約束の実現である。

「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ローマの信徒への手紙1:2-4)

神様は救いを約束してくださったが、この約束はイエスキリストによって成し遂げられた。
だから、今、私たちが信じるべき神様の約束というのは、イエスキリストによってなされた救いの約束である。

クリスチャンが信じている「神様の約束」とは、「物事がうまく進むようになる」とか「社会的に成功するようになる」というものではなく、救いに関するものである。

何からの「救い」か?

「救い」という時に、大切なことは何から救われるのか、ということである。
神様がイエスキリストによって私たちに約束している救いとは「罪からの救い」であり「死からの救い」である。
聖書で言う「救い」とは「罪と死」からの救いであり、これがすべての人々に与えられている神様の約束である。

人は、神様から離れた結果、罪と死に支配されてしまった。
これは、罪と死の奴隷となってしまったということである。
人は、罪という主人に悩まされ、どこまでいっても、死という問題に支配される存在となってしまった。
生きる意味を見失い、生きるために必要な愛や力を失ってしまった。
ここに人間の悲惨さがある。

神様はそのように罪と死に支配された悲惨な状態から、私たちを救い出してくださった。
もはや罪に縛られることはなくなり、死に支配されることもなくなった。
神様の救いによって、愛によって生きる本来の生き方を取り戻し、最後は、復活の体をもって天国に招かれる人生とされた。

この救いの約束を確かに信じるのであれば、私たちもエリヤのように、自分の使命を果たすことに命をかけることができるし、現実の世界に絶望することなく、神様がなされる救いをそこに期待することができるのである。

どっちか自分で選びなさい

エリヤがアハブ王の前に立ち、バアルという偶像の預言者と対決することになるが、この出来事によっても神様の真実さが明らかにされる。

エリヤはアハブに対して、イスラエルの民とバアルの預言者、アシェラの預言者をカルメル山に集めるように求めた。
エリヤは、どの神が本当の神であるのかを明らかにしようとしたのである。

実際に民と偶像の預言者たちが一同に集められる、エリヤは民に向かったこう告げた。

「『あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、手に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。』民はひと言も答えなかった。」

エリヤは主に従うか、バアルに従うか、どちらかはっきりするように民に求めた。
こう言われた民は、一言も答えることができなかった。

この時の民は、アハブ王の命令に従ってバアルを崇拝しつつも、イスラエルの神も完全には捨てていない中途半端な状態だった。

本来であれば、エリヤは「偶像を捨てなさい。主なる神に従いなさい。」と言うべきであるように思えるが、エリヤはどちらかを選びなさいというようなことを言った。
エリヤは、どちらかを自分の意思で選ぶようにと民に決断を迫ったのである。

信仰とは自由の中でこそ成り立つものである。
神様は人間を造った時に、神を自動的に信じるプログラムを人間に組み込むようなことはしなかった。
神様は人間に対して、神様さえも自由に選ぶことのできる意思を与えてくださった。

なぜなら、選ぶ自由がある中で神様を選び取ることが、神様を愛することだからである。
神様の願いは、他の何かがある中でも、私たちが神様を選び、神様を信じ、神様を愛することである。