牧師ブログ

「偶像の支配からの脱却」

ヤロブアムを襲った不安と恐れ

イスラエルの正統な後継者であるレハブアムが、国民に過酷な負担を強いる決定を下したことが引き金となり、イスラエルの分裂は決定的となった。
それにより、反レハブアム陣営のヤロブアムが10の部族と共にイスラエルの北側を、レハブアムが2つの部族と共に南側を治めるようになった。

この時イスラエルの民の多くはヤロブアムに従ったが、ヤロブアムには一つの不安があった。
それは、ダビデの血を引く正統な王ではない自分から、民が離れずにこれからも付いてきてくれるのかという不安である。
それでヤロブアムは、王としての地位を確立するために、2つの政策を実行に移す。

はじめに取り掛かったことは、都市を再建することだった。
ヤロブアムは2つの街を再建することにより、人々の生活水準を向上させ、民を北イスラエルに留まらせようとした。

また、もう一つは、宗教的なテコ入れだった。
当時、礼拝を捧げるための神殿が、レハブアムが治める南ユダのエルサレムにあった。
そのため、北イスラエルの住民が礼拝を捧げるために、エルサレムに行くとしたら、人々は自分のもとを離れていってしまうのではないかという恐れをヤロブアムは抱いた。

それで、ヤロブアムは金の子牛を二体作り、一体は北イスラエルの北側の国境付近に、もう一体は南側の国境付近にそれぞれ置いた。
そうすることによって、人々が北イスラエルの外へと出ていくのを防ごうとした。

偶像を生み出す人間の心

ヤロブアムが行ったことについて、聖書は「このことは罪の源となった」と言っている。
ヤロブアムが偶像を作り、民に偶像崇拝を強いたことは、ただの罪ではなく、その後の北イスラエルで繰り返される罪の源となった。
この偶像崇拝の罪により、北イスラエルは後に滅亡に至ることになる。

なぜ人は偶像を生み出し、偶像を求めるのだろうか?
おそらく、ヤロブアムが金の子牛を作り出した時、ヤロブアム自身は本気でそれを神だと信じていたわけではなかったと思う。
ヤロブアムは、ただ自分の王としての立場を守るために、金の子牛という偶像を利用したに過ぎなかった。

偶像崇拝というヤロブアムの罪の奥底にあったのは、ヤロブアムが抱いた不安と恐れである。
北イスラエルの民が、これからも自分に従って付いてきてくれるかという不安と恐れが、金の子牛という偶像を生み出し、北イスラエルを偶像崇拝の国に堕落させてしまったのである。

このように、偶像というのは人間の心と深く結びついており、ヤロブアムのように「将来に対する恐れ」や「これからどうなるかわからない不安」というものが偶像を生み出す。

日本には血液型占い、星座占い、風水や姓名判断など、多種多様な占いが広く知られているが、これもすべて一種の偶像である。
占いが昔から今まで、多くの人々の心を惹きつけている理由は、人間が抱きやすい不安や恐れという心と深く結びついているからである。
不安や恐れに支配された心は、いとも簡単に偶像に結びつき、主なる神様から離れさせるのである。

神が共におられる人生

人生を支配しようとする恐れや不安という心と私たちはどのように向き合ったらよいのだろうか?
マルコによる福音書にある御言葉が、そのヒントを与えてくれている。

35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

この話の始まりは、キリストが弟子たちに対して「向こう岸に渡ろう」と言われたことである。
弟子たちは、その言葉に従って舟に乗り込んだ。
そうすると、突然激しい突風が吹いて、舟が水浸しになり、沈みそうになった。

この出来事は、弟子たちがわがままに行動したから起こったのではない。
キリストに言われた通りに行動した結果、弟子たちは命の危機にさらされたのである。
この時弟子たちは、不安と恐れの心でいっぱいだっただろう。

キリストに従っていたとしても、私たちの人生から問題が消え去るわけではない。
クリスチャンの人生にも、日々あらゆる問題が襲ってくるし、それによって不安になったり恐れを抱いたりする。
しかし、私たちが目を向けるべきところは、その問題の中に、不安と恐れの中に、キリストが共におられるということである。

信仰というのは、何があっても揺れ動かなくなる自分が目標ではない。
信仰の対象は、揺れ動かなくなる自分ではなく、揺れ動かない神様である。
その神様が揺れ動く私を支えてくださり、立ち上がらせてくださることを信じることが信仰である。

不安と恐れが偶像と結びつくのではなく、神様を求めるようになる時、そこに本当の平安と希望が訪れるのである。